2011年10月19日

10月19日の出来事

10月19日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

紀元前202年
ザマの戦い
古代地中海を挟んで対立し続けたローマとカルタゴ。この両者が衝突した第二次ポエニ戦争は、一時、カルタゴ軍が南ヨーロッパを占領するなど優位に進めていました。しかし、大スキピオ率いるローマ軍が、イベリア半島のカルタゴ軍を破り、北アフリカに上陸すると、状況は逆転。ローマ軍は、カルタゴと同盟していたヌミディア王国を打ち破り王を捕虜にします。スキピオは有利な情勢をたてに和平条件を提示していったんは締結しかけますが、ハンニバルが帰還するとカルタゴは強硬姿勢に転じ、両者はヌミディア王国の戦力を確保するために進軍しました。ザマの町で対峙した両軍は、スキピオとハンニバルが直接交渉を行うも決裂。カルタゴ軍は戦象を突入させますが失敗。ローマ騎兵を誘い出して歩兵戦に持ち込むも、傭兵や新兵の多いカルタゴ軍は不利になり、予定していた古参の兵による敵中央突破も、誘い出していたローマ騎兵が戻ってきて包囲下に落ち大敗を喫しました。これによりカルタゴはローマに和平を申し出て、第二次ポエニ戦争は終結します。カルタゴの地中海における勢力は大きく衰退することになりました。


1902年
早稲田大学開校
名門私立大学のひとつ、早稲田大学は、1882年10月21日に大隈重信、小野梓、高田早苗らが設立開校した東京専門学校を前身としています。キャンパスは東京の早稲田に置かれました。創立に尽力したのは大隈の同志の政治家であった小野梓で、高田早苗は学校の職制や校旗などを考案。学校運営にあたり、講師としても参加しました(のち初代学長)。
政治経済学科、法律学科、理学科、英学科が設置されました。入学生は80名。1886年には校外生制度を創り、早稲田講義録を発行しました。1890年に文学科も設置されます。
1902年9月、翌年に発令される専門学校令の特例措置で大学を称することが認められ、早稲田大学と改称。
大学部と専門部に分けられました。大学部には政治経済学科、法学科、文学科が設置されました。これをうけて、10月19日、創立20周年記念式典と大学開校式が行われました。伊藤博文が式典で挨拶をしています。
なお、大学令による大学となったのは1920年の10校指定の時です。


1956年
日ソ共同宣言
1945年8月8日、ソビエトは秘密裏に予定していた対日宣戦のため、日ソ中立条約を破棄しました。
終戦後、日ソ両国関係は断絶したままでした。大戦末期ソ連に情勢改善を期待していたのに「裏切られた」上、シベリア抑留問題、中ソ友好同盟による対日批判、朝鮮戦争、漁業権問題などで、日本側の対ソ感情も悪く、関係は改善しませんでした。これは事実上日本を占領したアメリカと、ソ連との冷戦が高まったことも背景にありました。親米路線を打ち出した吉田茂政権は、中共が呼ばれなかったことに反発したソ連を除いたサンフランシスコ講和条約を締結します。
一方で両国の間では関係改善を模索する動きもあり、それはスターリンの死と吉田茂の退陣で加速します。鳩山一郎が首相となると、交渉を開始します。日本側は国連復帰に安保常任理事国のソ連の容認が欠かせなかったことと、北方領土の返還、抑留者の帰還、漁業権の解決などが課題になっていた為です。一方のソ連も共産圏の拡大のためには、日本との関係改善は良い宣伝材料でした。貿易の旨みもあります。しかし北方領土が問題になり交渉は進みません。一旦決裂したあと、この年10月12日、鳩山首相は自らソ連へ赴き、直接交渉。北方領土は棚上げし、「平和条約締結後に歯舞・色丹を日本側に権限を移す」という条件で、ブルガーニン首相と共同宣言に調印しました。両国関係は活発化していきますが、北方領土問題は尾を引く事になります。また、西側諸国では日本の外交的失敗、という見方が一般的でした。


1987年
ブラックマンデー
ブラックマンデー、すなわち「暗黒の月曜日」は、アメリカの財政赤字と貿易赤字という背景の中、先物取引と金融商品市場の拡大、そしてそれを生み出したコンピュータによる金融工学とソフトウェアの設定が引き起こした、株の自動連鎖売によるニューヨーク株式市場の大暴落です。22.6%という史上空前の下げ幅は、1929年の株価大暴落(ブラック・サースデー)を上回る暴落だったためにこう呼ばれました。要するにできるだけ損失を抑えるために、市場の数値が下がり始めたら、売りに出すプログラミングが反応して、コンピュータが勝手に売り、それが止まらなくなったわけです。まさに実体経済から金融経済時代へシフトしたはじめてのクライシスでした。皮肉にも、日本はこの影響をあまり受けず、むしろ欧米と比較して自画自賛するような主張が当然のように語られ、このあとにバブル経済は絶頂に達します。
バブルはのちに「停滞の20年」という深刻な事態を生むことになります。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:07| Comment(0) | 10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月18日

10月18日の出来事

10月18日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1561年
第四次川中島の戦い(永禄4年9月10日)
甲斐の武田晴信(信玄)と越後の上杉景虎(政虎・謙信)が度々衝突した川中島の戦い。もともとは、信濃に進出した武田信玄に対し、信濃の国人領主らが抵抗していましたが、最も強力な勢力だった村上義清が衰退するにおよび、北信濃の領主らは上杉景虎に援助を求めました。上杉景虎は縁戚の高梨政頼を支援する目的もあり、信濃への進出を決めます。彼は朝廷にも働きかけて大義を得ていました。両者が衝突したのは、千曲川と犀川の流域。善光寺平の付近でした。両者の戦いは基本的に長期対陣するか小競り合いでした。特に本拠地からの距離があり敵対勢力に近い武田側が戦闘を避ける傾向にありました。しかし、ついに永禄4年、両軍は川中島で激突します。上杉側は妻女山に進出。それを受けて、武田側は茶臼山に出兵したあと、海津城に入城しました。武田側は山本勘助の策で、高坂昌信の別働隊を妻女山の背後から襲わせ、驚いて降りてきた上杉軍を迎撃するキツツキ戦法を取ります。しかし上杉側は察知していました。密かに山をおり、いわゆる「鞭声粛々夜河を渡る」で密かに武田本隊の前面に展開しました。夜が明けて事態を察知した武田軍ですが、上杉側は次々と部隊を突入させる「車懸りの陣」で攻勢。武田軍は必死に防戦するも、信玄の弟武田信繁、山本勘助、諸角虎定らが討ち死にする大敗を喫します。このとき、信玄・謙信が刀を交えた、という伝説が生まれました(真偽は不明)。しかし武田軍は別働隊がまるごと残っていました。妻女山が無人と気づいた高坂昌信らは急ぎ山を降りて上杉軍の背後へ襲いかかりました。こうして乱戦となり、上杉側も大きな被害を出し撤退に至りました。結局、両者引き分けという結果に終わったわけです。


1867年
アメリカ、アラスカを購入
人類が最初にアメリカ大陸へ移住した際に通過したと言われるアラスカ。西洋人が来るまではエスキモーが暮らす地でした。近世に入り最初にここに到達した西洋人は、ロシア人でした。1648年、セミョン・デジニョフがベーリング海を探検したのが最初で、1728年8月16日にヴィトゥス・ベーリングが訪れてその名が残りました。ロシア帝国はアラスカに進出し、植民を行います。しかし極寒の環境で、入植したのは毛皮商人など限られていました。皇帝は露米会社の設立を認めて活動させますが、乱獲によるアザラシ等の減少と、アメリカやイギリスとの競争、クリミア戦争の戦費が不足したことから、利益の薄い割に防衛などで負担の大きなアラスカの価値が低下。売却することを決めます。地理的にも近く、クリミア戦争で中立だったアメリカが購入を決定。決めたのはアメリカ国務長官のウィリアム・H・スワードでした。金額は720万ドル。1エーカー当たり約2セントでした。アラスカはロシア帝国領アメリカからアメリカ合衆国領アラスカ県となりました。スワードは何も無い極寒の地に大金をはたいたとして轟々たる批判を浴びますが、まもなく、ここに金鉱脈が発見され、のちには石油も発見されました。スワードが知っていたかはわかりませんが、結果的にはおいしい買い物だったわけです。


1958年
フラフープブーム
いわゆるフープと呼ばれる輪っかを使った遊びは古くからありますが、フラフープというのは18世紀にハワイのフラダンスとフープ遊びを融合して作られた造語です。のち1957年に遊具の一種として売りだされ登録商標化されています。
腰を使いフープをくるくる回転させる遊びは、アメリカで大ブームを巻き起こしました。翌年10月18日、フラフープが日本で販売を開始されると、特に子供たちの間で瞬く間に大ブームとなりました。
ところが、11月18日、フラフープをやりすぎて胃に穴が開いた、なる「事件」が起こり、さらに腸捻転を起こす「事件」が連続したことから、11月22日、千葉県東金市の小学校が禁止したことを皮切りに、全国で禁止されていきました。ブームはあっという間に終ってしまったわけです。
しかしその後、フラフープで内臓に問題が起こる、というのは、医学的に否定されました(むしろ運動する意味では健康的とも言える)。その後、大ブームにはならなかったものの、一般に浸透しています。


1967年
ベネラ4号の金星調査
この日は、ソ連の金星探査機「ベネラ4号」が金星軌道に到達した日です。様々な分析機器を搭載した降下カプセルが金星の大気圏中に投下されました。カプセルは大気の状態を観測しながら降下し、着陸しました。
観測データは探査機本体が中継器となって、地球に送信しました。観測の結果、金星の大気はほとんどが二酸化炭素で高温高圧であることが判明しました。翌19日、アメリカの金星探査機マリナー5号が金星に到達。金星の周りをフライバイ飛行しました。マリナー5号はベネラ4号の観測を補い、より詳細にデータを得ることが出来ました。
ベネラ計画による金星調査は16号まで続きました。
ちなみにベネラというのは、ラテン語で金星のことです。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:03| Comment(0) | 10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月17日

10月17日の出来事

10月17日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

紀元前539年
新バビロニア帝国の滅亡
バビロンを都とし、中近東に大きな領土を手にした新バビロニア帝国。
紀元前597年、帝国のネブカドネザル2世は、ユダヤ人のユダ王国を攻撃し、エルサレム市街に入城。指導階層の住民約3000人を捕虜としてバビロンに連れ去りました。これをバビロン虜囚といいます。
大国となったバビロニアですが、実力者である初代ナボポラッサルと、2代ネブカドネザル2世以降の王は短命の王が続きました。
一方、小国の王だったキュロス2世は宗主国のメディア王国を滅ぼし、勢力を拡大。ついにはアケメネス朝ペルシャ王国を建設。新バビロニア帝国に攻め込みます。なんなくバビロンに入城し、新バビロニア帝国は滅亡しました。キュロス2世は、バビロンに移住させられていたユダヤ人やその他の諸民族を解放。そのためユダヤ人の間では、キュロス2世は救世主と崇められました。ただ虜囚から長い時を経ていたため、故郷に帰ったユダヤ人は一部だったと言われています。
なお、バビロンにあった空中庭園はこのとき破壊されました。


1877年
華族学校「学習院」開校
この年、華族学校学則が制定され、東京の神田に華族の教育機関として華族学校が開校しました。
その前身は、1847年3月に京都に開校した、公家の教育機関。学習院という名前は、1849年に孝明天皇が「学習院」の勅額を下賜したことで、公称となったものです。国学や儒学を教えていました。その後、一旦は閉鎖されますが、慶応4年3月12日(1868年4月4日)、出来たばかりの新政府によって再開され、大学寮代(大学寮は平安時代にあった公家の教育機関)と改められました。
しかし、直後の明治1年9月16日、国学・神道の皇学所と、漢学・儒学の漢学所の設立が決定すると、大学寮代は廃止されました。
さらに皇学所と漢学所は、明治2年9月に大学校設立のために廃止されます。しかし復興を求める意見が多く、同年12月、大学校代が興されました。しかし天皇が東京に移り、公家も移動すると、明治3年8月、一旦廃止されて、京都府中学校となりました。
1877年に、華族学校が設立されると、1888年、明治天皇から改めて『学習院』の勅額が下賜されて、宮内省管轄の官立学校「学習院」となりました。第二次世界大戦後に華族制度が廃止され、私立学校となりましたが、現在でも皇族が通うことのある大学となっています。


1967年
ラストエンペラー死去
清朝最後の皇帝(宣統帝)であり、満洲帝国の皇帝(康徳帝)でもあった愛新覚羅溥儀が北京で亡くなりました。
1908年にわずか2歳10ヶ月で第12代清朝皇帝となりますが、1911年の辛亥革命で退位。『大清皇帝』の尊号を持ち、紫禁城と頤和園はそのままでした。張勲らによって復位の動きもありますが失敗。その後も紫禁城にいましたが、1924年北京政変で追放されると、各国大使館も受け入れず、天津の日本租界に移りました。日本との関係は、関東大震災の際に溥儀が義援金として所有財宝を贈ったことがきっかけで、日本政府関係者が身柄を受け入れたのです。その後、満洲に進出を企てた日本軍は、租界にいた溥儀の利用価値に気づき、彼を密かに脱出させて満洲国の執政に付け、のち皇帝にしました。
事実上の傀儡皇帝でしたが、終戦で溥儀は日本へ向けて脱出を図るも直前でソ連軍の捕虜となります。極東軍事裁判にも出廷しますが、彼の証言は信憑性が薄いとして取り上げられませんでした。1950年、身柄は中華人民共和国に移され、撫順戦犯管理所に収容されました。1959年12月4日、劉少奇国家主席の特赦令で釈放。北京植物園の庭師となりました。中国人民政治協商会議全国委員にも選出されます。しかし文化大革命が起こると紅衛兵の標的にされ、入院中の病院は非難を受けたため、病院関係者は巻き込まれるのを恐れて治療もせず放置。しかし、彼に同情的だった周恩来の指示で治療を受けることになりました。しかし末期ガンだったため。まもなく死去。最初から最後までまさに激動の人生を終えました。


1973年
第1次オイルショック
10月6日、エジプトのイスラエル攻撃から始まった第4次中東戦争。これを受けて、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)の緊急閣僚会議が開かれ、原油生産削減、供給制限が決定しました。しかもイスラエルを支援する国に対して、イスラエルの撤退まで、石油の輸出禁止を表明します。12月23日、ペルシャ湾岸の6カ国が石油の値段を引き上げるに及んで、各国にオイルショックが起こります。はじめて石油に依存している社会の脆さが露呈しました。
日本は戦争には直接は関係ありませんでしたが、物価は高騰。人々はトイレットペーパーの買い占めに殺到。大きな騒動となりました。節約が訴えられ、ガソリンスタンドは日曜に閉店するようになります。高度成長時代は終焉を迎え、整備新幹線や本州四国連絡橋の建設も大幅に遅れることになりました。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:02| Comment(0) | 10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。