2011年10月16日

10月16日の出来事

10月16日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1555年
厳島の戦い(天文24年10月1日)
中国地方の大大名、大内家の家臣団の対立から起こった大寧寺の変。この事変で大内義隆を滅ぼした陶隆房は、同盟関係を結んだ豊後大友義鎮の異母弟大友晴英を迎え、大内義長として大内家を継がせます。隆房は晴賢と改名。事実上大内家の頂点に立ちます。もともと、大内家の内部対立は、陶ら武功派の軍事優先政策が原因の一つであったため、陶の行う政治は、再び大内家家臣団の間で反感を買う用になります。大寧寺の変では陶に味方をした杉重矩はもともと陶と仲が悪く、すぐに反旗を翻し滅ぼされたほか、石見領主吉見正頼も毛利側に付き、大内家臣団は動揺します。また、毛利元就は、瀬戸内の水路を抑えるため、厳島に城を築き、偽の情報を出して陶軍を誘います。旧暦9月21日、陶は反対を押し切って兵力2〜3万で厳島へ上陸します。毛利軍は水軍が集結するのを待って、9月30日に荒天の中、約5千人を二手に分けて厳島へ上陸。翌日陶軍を奇襲しました。小さな島に大軍がひしめき、嵐の後だっただけに、大混乱に陥り、陶軍は大敗を喫します。晴賢は再起を図ろうとしますが、毛利方の水軍が取り巻き、船も限られていたため、ついに諦めて自害して果てました。あっけない最後でした。以後、毛利氏は大内領を取り込み、勢力拡大していきます。


1793年
マリー・アントワネット処刑される
民衆の起こしたフランス革命で処刑された彼女は、貧窮に苦しむ庶民を無視して贅沢に暮らす王妃として悪く描かれることのあった女性です。しかしそれには多分に事実とは異なる中傷も含まれています。
ハプスブルク家の出身で、フランスの王太子ルイ(のちのルイ16世)と結婚しました。しかし国王ルイ15世(16世の祖父)の娘たちと、ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人との対立に巻き込まれ、側室を嫌う彼女の性格もあって、デュ・バリー夫人と険悪な状況になります。ルイ15世や、夫との関係も良くなく、彼女は奢侈やギャンブルに走りました。といっても程度の問題で、王室予算と比べてもささやかなもの、一方で貧困者の子供の為に寄付をしたり、夫の即位で王妃となると、宮中のムダを削減するなど、のちには生活を改めています。しかし好き嫌いの激しい彼女は、気に入らない貴族を無視し、反発した貴族らは、宮中を追い出されたデュ・バリー夫人らとともに、彼女を中傷。それが庶民にも広がります。フランス革命が起こると国王一家はテュイルリー宮殿に移りますが、国外の支援者と合流するため、一家で宮殿を脱出、国境へ向かうも発見され捕らえられる「ヴァレンヌ事件」を起こしてしまいます。これで国民は国王一家を見捨てたといいます。一家は1792年8月10日にタンプル塔に幽閉され、翌年、一方的な罪状を押し付けられて処刑されました。しかし最期まで毅然としていたとか。
彼女を処刑した共和革命派は恐怖政治で多くの罪なき人々をギロチンで処刑し、彼女の息子ルイも虐待の上、タンプル塔の日の射さない部屋に2年間も閉じ込め病死させました。
今では、彼女が貧窮に苦しむ庶民のことを聞いて言ったとされる「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」も、実は別人の話だったことがわかっています。誹謗を生んだ原因は彼女にもあるものの、時代に翻弄された悲劇の女性ということは間違いないでしょう。


1968年
カネミ油症事件
小倉の倉庫会社と精米会社が合併してできたカネミ倉庫が、この年売りだした食用米ぬか油。
この油に、製造過程で脱臭するためのPCB(ポリ塩化ビフェニル・鐘淵化学工業製造)が配管作業のミスで配管部から漏れ、混入し、熱によってダイオキシンに変化しました。ダイオキシン油となったのを知らずに売りだされ、それを摂取した人々は、すぐに体の異常を起こします。頭痛や肝機能障害、そしてこの事件の象徴となったのが、目に見える皮膚障害。疱瘡のような症状が出たほか、色素の沈着によって皮膚が黒く変色しました。生まれた赤ちゃんが黒く変色するなど、ショッキングな出来事となりました。治療法がなく、患者は生涯苦しむことになりました。
厚生省は10月16日、この米糠油の販売を禁止しました。しかしもはや手遅れ。患者らはカネミと鐘淵、国を訴えます。厚生省は認定基準を制限するなど、救済には消極的でした。企業との和解が進んだ現在、ある程度の政治的判断で救済が行われていますが、認定されていない人も多く、患者は苦しみ続けています。


1985年
阪神タイガース優勝大騒動
この年、阪神は21年ぶりにセ・リーグで優勝しました。60年代に好調だった阪神は、70年代に入ると徐々に低迷していきます。選手起用のトラブルや、江川卓事件などもあり、なにより、毎年前半は好調なのに、甲子園が使えない夏場の長期遠征でそれ以降負けが込むというのが、阪神の特徴でした(これを「死のロード」といいます)。
しかし1985年、真弓明信、ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布らの打線が爆発。219本塁打の記録を立てます。また8月12日の日航機墜落事故で、球団社長が死亡する出来事もあり、阪神選手は一致団結。勝利を呼び込みました。
久しぶりの優勝に、ただでさえコアなファンたちが、大歓喜。大阪・道頓堀の橋の上から次々と飛び込む騒動になるのですが、さらに興奮したファンがケンタッキーフライドチキンの前に置かれていたカーネル・サンダース像を持ちだして道頓堀川に投げ込む事件が起こりました。
しかし翌年以降、阪神は再び低迷。ファンはこれを「カーネル・サンダースの呪い」と呼ぶことになります。


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2011年10月15日

10月15日の出来事

10月15日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1917年
マタ・ハリ処刑
女性スパイの代表的な人物、マタ・ハリ。本名はマルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ。オランダ生まれのマレー系オランダ人。その前半生は苦労の連続で、両親が離婚、後見人の元ドイツへ行き、幼稚園で働くようになるも、そこでトラブルを起こし、さらに結婚するも離婚。パリへ移住します。そこで東南アジアから来た触れ込みでダンサーとなります。ダンサーといっても、ストリップであり、娼婦でもありました。マタ・ハリというのはその時の芸名です。第一次世界大戦当時、彼女は多くのフランス人将校、ドイツ人将校を相手にしました。それゆえに、戦況の悪化していたフランス軍は、その理由を彼女のスパイ活動によるもの、ということにし、彼女を銃殺刑に処しました。しかし、彼女が実際にどれだけのスパイ活動をしていたかは不明で、大した諜報活動はしていなかった、と見る向きが有力です。つまりフランス政府は、有名な娼婦であるから失政をごまかす都合のいい道具に利用したわけです。
処刑の際にも取り乱さなかったといいますが、その美貌に惑わされないように狙撃者は目隠しをされた、といった真偽定かならぬエピソードがあります。


1940年
映画『独裁者』が初公開
チャールズ・チャップリン監督・主演で、全編トーキーの最初の作品です。
内容は、ナチスドイツをモデルにしたトメニアという架空の国の、独裁者ヒンケルとヒンケルに顔がそっくりなユダヤ人の床屋チャーリーとの関係を描いたコメディ。人種差別をネタにしており、最後に行われる「独裁者」の演説も迫真的な内容で、コメディではあるものの、社会問題を描いたものでした。
顔が似ていることが重要な要素となるヒンケルとチャーリーはチャップリンの一人二役(ちなみにチャップリンとヒトラーは4日違いの同い年です)。
ハーケンクロイツに似せた××の紋章や、登場人物の名前も、ヒトラーやゲッペルス、ゲーリングなどナチス関係者に似せています。
ユダヤ人や黒人への差別は、アメリカでも行われており、人種差別批判を語らせたこの映画は、共産主義的だと批判を受けました。チャップリン自身はナチス政権が行なうユダヤ人虐殺については知らなかったといい、結果的に皮肉な内容となったと言えます。真偽は不明ですが、ヒトラーもこの映画を見た、という話があります。
なお、ドイツと同盟していた日本では、戦後の1960年に公開されました。


1962年
キューバ危機
史上唯一、全面核戦争になるのではないか、と恐れられた事件が、キューバ危機。
カストロによる革命後、ソ連に接近したキューバとアメリカは対立を深めることになります。カストロ政権転覆を図ろうとしていたアメリカは、キューバをU2偵察機で偵察中に、建設中のミサイル基地と中距離弾道ミサイルがあることを発見します。ソ連の核ミサイルがキューバに配備されたら、アメリカはミサイルに対し無防備にさらされる危険性がありました。ケネディ大統領は断固たる措置をとることを決め、駐米ソ連特命全権大使を呼んでミサイル撤去を迫り、デフコンを準戦時体制の2に下げ、キューバ近海の海上封鎖を命じました。その上で、国民にキューバのミサイル配備を伝える演説を行います。マスコミも全面核戦争になる可能性を報道。米国市民は買い出しでスーパーに殺到するなどパニックになります。ソ連も核ミサイル発射の準備を進めました。実はキューバにはすでに大量の核ミサイルと4万もの兵士が配備され、ソ連の輸送船は臨検されたら自爆するよう命じられており、カストロも強硬姿勢を主張。しかしアメリカは、ソ連軍がそこまで配備されていることを知らず、空軍はキューバ爆撃の準備を進めていて、あやうく第3次世界大戦というところまで行きました。しかしフルシチョフは譲歩を決め、アメリカと交渉。アメリカもキューバ攻撃を中止し、あわや戦争は回避されました。
フルシチョフが譲歩したのは、全面核戦争になった場合、核兵器の数から現状では勝てないと判断したためと言われています。


2003年
神舟5号の打ち上げ
中華人民共和国は、成立後まもなくから、ミサイルと核兵器の開発を開始しました。当初は対米戦略、その後は対ソ戦略も兼ねての計画でした。アメリカのNASAジェット推進研究所設立に関わった銭学森を招請し、大陸間弾道ミサイルの研究を進めます。その技術は宇宙ロケットの開発へと発展しました。1973年に有人宇宙船「曙光1号」を打ち上げる「714計画」を立てますが、結局毛沢東の意向もあって、中止になりました。最初の無人ロケットは1969年11月16日に打ち上げを行いますが失敗。翌1970年2月11日、日本が人工衛星おおすみのち上げに成功し、日本に先を越されてしまうも、同年4月24日、中国初の人工衛星東方紅1号の打ち上げに成功します。以後、徐々にロケットを大型化した中国は1986年、有人計画を再開(「863−2宇宙航空計画」)。
2003年に楊利偉宇宙飛行士を乗せた神舟5号は、長征2F型ロケットで発射され、軌道に達しました。世界で3番目の有人飛行成功国となったことは、中国の大国化を象徴する出来事となりました。神舟5号は、地球を14周して帰還、内モンゴルに無事着地しました。
このニュースを受け、日本では「それくらい日本も可能だ」と主張する政治家がいる一方、衛星ビジネスが出来ればよく有人は必要ない、という国内宇宙機関関係者の発言もニュースになりました。


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2011年10月14日

10月14日の出来事

10月14日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1872年
日本の鉄道開業(明治5年9月12日)
最初に開業した鉄道路線は、新橋駅(のちの汐留貨物駅。現在の汐留シオサイト付近)−横浜駅(現根岸線桜木町駅付近)でした。鉄道は長崎に来航したロシアのプチャーチンが情報をもたらし、ペリー来航時には人を載せることができる鉄道模型が運行されました。1869年には北海道で木のレールを使用した茅沼炭鉱軌道(トロッコ鉄道)が運営を始めています。出来たばかりの明治政府は、流通の必要性と、近代化のアピールのために、1869年、東京と横浜の間に鉄道建設を決めました。しかしそれだけの資金も技術もない上に、下手に西洋に建設を任せると、他のアジア諸国のように植民地化のきっかけになりかねませんでした。慎重にイギリス政府に援助を頼み、できるだけ国産の木材を使い、反対も多かったため、土地買収費用を抑えるために、海に堤防を作りその上に線路を引きました。車両はすべて輸入品。5月7日に品川−横浜で仮開業し、重陽の節句である9月9日の本開業を目指しましたが、悪天候により12日に開業しました。運賃は非常に高く、速度も現在に比べてゆっくりでしたが、それでも過去にない交通機関として、その後、各地で建設が進むことになります。
1922年、日本国有鉄道が「鉄道記念日」として制定。1994年に運輸省が「鉄道の日」と改称しました。


1900年
ジークムント・フロイトの『夢判断』が出版される
精神分析学者の第一人者であるフロイトが出版した代表的な書物です。といっても、当時はほとんど相手にされませんでした。フロイトは29歳の時にパリに留学し、ヒステリーに対する催眠療法を学びました。これが後に精神分析へと発展することになります。彼はヒステリーが幼少時の性的虐待によるものと考え、無意識に封じ込まれた内面的なものを引き出すことが出来れば、治療が可能ではないかと考えたわけです。自我の研究を行い、それまでの神学的な解釈しかなかった夢についても、無意識下に封じ込まれた記憶や本能(特に性)を示したものとみなしました。これは意識に支配されるのが当たり前と思っていた人々に大きな影響を与えました。性というタブーを取り上げたところも批判を受けました。
ユングらがフロイトの考えに賛同し、彼の存在は世に知られるようになりました。そのご医者としても活躍しますが、ナチスが台頭するとユダヤ系だった彼も、彼の思想も否定され、イギリスへ亡命。そこで客死しました。


1943年
ソビボル大脱走事件
ナチス・ドイツが、対ソ戦争のさなかに、東欧地域のユダヤ人絶滅のためのラインハルト作戦で作った三大絶滅収容所の一つが、このソビボル強制収容所(他のふたつはベウゼツ強制収容所、トレブリンカ強制収容所)。
ユダヤ人だけでなく、ロマ人(いわゆるジプシー)、捕虜にしたソ連軍のユダヤ人もここに送られました。戦車の排気ガスを使ったガス室が作られ、1942年5月から殺害が行われました。
1943年10月14日、フランツ・ライヒライトナー所長が留守にしたのを見て、収容されていたユダヤ系ポーランド人のレオン・フェルトヘンドラーとユダヤ系ソ連軍将校のアレキサンダー・ペチェルスキーが指導して、収容者らは監視に当たっていた親衛隊員を誘い出し次々と殺害。武器庫を襲って銃器を持ち出すと、600人の収容者が脱走しました。しかし収容所の周りは地雷原。脱走に気づいた監視兵らの銃撃もあり、半数が死亡。残りは脱走に成功しますが、次々と捕らえられ、50〜70人だけが生き延びました。主導した二人も逃げ延びますが、フェルトヘンドラーはのちに右派ポーランド人に殺され、ペチェルスキーはソ連政府にスパイ扱いを受けますが、長生きしました。
この脱走事件の影響と、戦況の変化を受けて、収容所は弾薬倉庫に転用されるようになり、その後、虐殺を隠すために三大収容所は跡形もなく破壊され、絶滅計画は悪名高きアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へとシフトすることになります。
なお映画『大脱走』のもとになった脱走事件は、連合軍の捕虜を収容していたスタラグ・ルフトIII捕虜収容所(1944年3月24日に発生)。


1947年
人類史上初の有人超音速飛行
アメリカ陸軍のエースパイロットで、大戦時には欧州戦線にも参加したチャールズ・エルウッド・イェーガーは、戦後、NACA(後のNASA)が行った高速飛行実験計画のため、実験機ベルXS−1のパイロット5人の一人に選ばれました。その目的は、音速を突破すること。しかし音速を突破すると大きな衝撃を受け、あるいは振動で空中分解するのではないか、といった問題が様々に検討されており、危険を伴う実験でした。通算50回目の飛行の時、イェーガーは無謀にも、2日前に落馬で肋骨を骨折したことを隠し、この実験に挑戦しました。コックピットに乗るのさえ大変だったという重症でした。それでも、母機の専用B−29に吊り下げられて上空まで上がった後、XS−1は切り離され、ロケットエンジンに点火。水平飛行でマッハ1.06に達し、音速を突破しました。音速を突破しても、さほど衝撃もなく飛行に問題はありませんでした。想定していたより、実にあっさりとしたものだったわけです。
この話は、映画『ライトスタッフ』に描かれています。


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