2011年10月13日

10月13日の出来事

10月13日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1307年
テンプル騎士団壊滅
テンプル騎士団は中世に存在した修道会で、「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」という名前です。
第1回十字軍で占領したエルサレムの維持と、巡礼者の保護のために設立されました。設立したのはフランス貴族ユーグ・ド・パイヤン。教皇の認可を受けると、騎士団には多くの騎士が参加し、第2回十字軍以降の対イスラム戦争に参加し、また経済的に支援しました。その理念と功績から、各地の王侯貴族の寄進を受けました。テンプル騎士団は、それらの財産を換金し、巡礼者の資産を管理する一種の銀行として発達して行きました。莫大な資産で各地に土地を購入し、軍隊を持ち、艦体を編成するほどになります。その一方でイスラムとの戦争は消極的になり、過去のように勝利をもたらすこともなくなり、むしろ金融機関の様相を持つようになりました。
その巨額な財産が、皮肉にも、組織の終焉をもたらすことになります。
フランス王フィリップ4世が、テンプル騎士団を支配下において、より強硬な権力をヨーロッパに広げようとしたために、騎士団と対立。王は、その資産を手にするため(騎士団への債務を帳消しにするためとも言われる)、「異端審問」によって「反キリスト」「悪魔崇拝」であるとして、フランス全土で会員を一斉に逮捕。資産を没収しました。当時の教皇クレメンス5世をはじめ、高位の聖職者らは王の息がかかっていたために、これを容認しました。
現在では、これが冤罪であることは誰もが認めるところとなっています。


1804年
麻酔の日(文化元年10月13日・グレゴリオ暦1804年11月14日)
華岡青洲が世界で初めて全身麻酔による手術を成功させたことを記念して、日本麻酔科学会が制定しました。なお、旧暦に合わせてあります。
華岡青洲は、蘭医の大和見水に外科手術の方法を学び、故郷に帰って開業しますが、麻酔で眠らせて外科手術を行う方法で、人々を救えないかと考えるようになります。複数の植物から麻酔効果を発見し、動物で試しますが、どうしても人間で試験を行う必要があります。人体実験に苦悩した彼を見た、実母の於継と妻の加恵が実験を申し出てます。何度かの人体実験で、母は死に、妻も失明しましたが、その結果、安全な全身麻酔薬「通仙散」が完成しました。これを用いて、文化元年10月13日、大和国宇智郡五條村の藍屋勘という60歳の女性に、全身麻酔をし、乳癌の摘出手術を行なって成功させました。
なお、明確に記録があるわけではありませんが、考古学的な調査から、古代エジプトや、西欧人が来る前の中南米でも、外科手術が行われていたとみられ、何かしらの方法で麻酔を行なっていたことが想像できます。また半ば伝説的ではありますが、後漢末の医者、華佗は「麻沸散」と呼ばれる麻酔薬らしきもので開腹手術を行なっていたことが、西晋時代に書かれた史書『三国志』に記録されています。


1947年
11宮家51人の皇籍離脱が決定
この宮家は、終戦まで皇族の身分とされてきた家柄です。すべて伏見宮家の子孫で、明治維新の頃に同家から新たに宮家が興されたり、あるいは後継者のいない宮家の存続のために伏見宮家からあとを継がせたもの。伏見宮家を含むこれらの宮家は天皇の子息が興す世襲親王家と呼ばれる代々の特権皇族。しかもそれらの宮家に後継者を入れた伏見宮家は南北朝時代の北朝3代崇光天皇の皇子、伏見宮栄仁親王が初代の家柄で、天皇家とはかなり離れた家です。
11家は伏見宮、閑院宮、久邇宮、山階宮、北白川宮、梨本宮、賀陽宮、東伏見宮、朝香宮、竹田宮、東久邇宮。
終戦後、皇室財産が国庫に納められることになり、天皇家の予算分は国庫から出ることになりますが、それ以外の財源は皇室自身の運用ができなくなり、世襲宮家を支えられなくなったため、東久邇宮稔彦王や、賀陽宮恒憲王らが臣籍降下を申し出たことで、11宮家は離脱し、旧皇族と呼ばれることになります。
近年、天皇家に男子が少ないことから皇位継承の危機問題が出ていますが、旧皇族の関係者に、男系継承者の確保のために、旧皇族の皇籍復帰を主張する意見があります。ただ、男系にこだわると、旧皇族は伏見宮系統であるため、男系の血縁で20代近く天皇家から離れており、そこまで離れた血縁による皇位継承の前例はまったくありません(古代の継体天皇の5代が一番離れた例)。国民の理解を得るのは困難でしょう。


2010年
コピアポ鉱山落盤事故で救出が始まる
8月5日、チリのコピアポにあるサンホセ鉱山で、坑道の途中(地下460m地点)で大規模な落盤事故が起こりました。33名の作業員らは最奥部(地下700m付近)にいたため、直接の被害はありませんでした。しかし通気口以外すべて埋まってしまったために、閉じ込めら格好になります。チリの鉱山は安全性に乏しい所が多く、それまでも多くの事故が起こっていました。サンホセ鉱山も同様でしたが、食料を置いておいたシェルターが用意されていたため、すぐに危機的な状況にはなりませんでした。それでも限られた食料、高温の環境では長期は不可能です。状況が状況だけに絶望的でした。
それでも8月22日、最奥部のシェルターへ向けてドリルで小さな穴を開けたところ、引き上げたドリルの先端に手紙が付いていました。その内容から、33名全員が無事だと判明したわけです。このニュースは、世界中に広がり、各国が救出の支援を表明しました。当初はクリスマスまでかかると言われていましたが、落盤の危険の中、困難な救出用通路の掘削に成功。カプセルにひとりずつ入れて引き上げを行い、全員無事に救出されました。
落盤場所の運の良さもさることながら、坑道が2kmほど無事だったために、空間が確保できたこと、食料と水があったこと、通気口とバッテリーが無事だったこと、そしてなにより、現場監督がリーダーシップを取って作業員をまとめ上げたことが大きかったと言えます。地上側からも諦めずに調査を続けたことも良かったでしょう。一方で鉱山会社の幹部の対応の悪さは大きな問題となりました。


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2011年10月12日

10月12日の出来事

10月12日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1492年
コロンブス・デー
いわゆる「アメリカ大陸発見」の日です。クリストファー・コロンブスが率いたスペインの艦体が西インド諸島に初上陸したことを記念しています。西洋ではすでに、地球が球体であることは常識となっており、コロンブスはアジア(インド)へ行くのに、西回りに進んでもたどり着くと考えていました。彼は世界がヨーロッパ、アフリカ、アジアだけで構成されていると思っており、地球の大きさも実際より小さいと考えていたので、西回り航海を支援するよう、ポルトガル王のジョアン2世に求めます。しかし報酬条件の折り合いがつかず受け入れられませんでした。そこでカスティーリャ王国のイザベラ1世と、その夫で共同王であるアラゴン王子フェルナンド2世に支援を要請します。紆余曲折はあったもののイザベラ女王が話に乗り航海が可能になりました(サンタ・フェ契約)。1492年8月3日にパロス港を出港。キャラベル船のニーニャ号とピンタ号、ナオ船のサンタ・マリア号の3隻でした。
なかなか陸地が現れず、船員たちは不安に陥り、暴動を起こしそうな雰囲気になったため、コロンブスは期限を区切って航海することを約束し、その約束が迫った10月11日に島影を発見しました。翌日、上陸を果たし、「サン・サルバドル島」と名づけます。帰還後大絶賛されました。翌年、入植のために1500人を率いて再度航海。到着後、彼は略奪を繰り返し、膨大な原住民を虐殺します。のち彼は入植者と対立、スペイン王室にも見捨てられ、最後はほとんどを失い病死しました。彼は最後まで発見した土地がアジアだと考えていました。結局そこが「新大陸」であることを巧みに主張したアメリゴ・ヴェスプッチの方が評価され、新大陸はアメリカと名付けられてしまいます。
なお、ヨーロッパ人の北アメリカ到達は、1000年ころのバイキングが先であるため、「新大陸発見」ではありませんが、植民地政策上の意味では最初の「発見」という見方もされることがあります。


1590年
狩野永徳没(天正18年9月4日)
安土桃山時代に活躍した絵師、狩野永徳。著名な絵師狩野元信の孫で、やはり絵師の狩野松栄の子。父親生存中に若くして狩野家を継いだようで、一派を率いて織田信長に仕えました。信長が上杉謙信に贈った『洛中洛外図屏風』はその当時の代表作です。安土城の障壁画も描いたと考えられています。信長死後は豊臣秀吉に仕え、大坂城、聚楽第の障壁画も担当しています。朝廷・公家との関係も深く、内裏を始め、貴族邸宅、寺院の障壁画も描きました。東福寺法堂天井画の制作中に病で倒れ死去。あまりにも人気だったため、休む暇もなかったと見られます。狩野派は、彼の子孫である狩野孝信、狩野探幽と受け継ぐ本家集団と、弟子で養子でもあった狩野山楽、その弟子の山雪へと受け継がれた京狩野派にわかれます。豊臣氏滅亡後は徳川氏に接近し、江戸幕府の御用絵師となりました。しかし、戦国から江戸初期までの優れた人材に比べ、それ以降の狩野派は伝統的な技法のみにこだわって才能に目立ったものが出なくなります。また、永徳らが個人的な技能を花開かせ活躍できたのは、信長、秀吉という絶大な力を持ち、芸術を愛し、支援した君主がいたからでもあるでしょう。


1960年
浅沼稲次郎暗殺事件
この日、解散・総選挙が行われるのを前にして、日比谷公会堂で、自民党・社会党・民社党3党党首の立会演説会が行われることになりました。演説は、民社党委員長の西尾末広、社会党委員長の浅沼稲次郎、自民党総裁の池田勇人の順番でした。演説の様子はテレビ撮影されており、ラジオで中継されていました。午後3時、浅沼が壇上に立ち演説を開始すると、会場に着ていた右翼がやじを飛ばし混乱します。中継の司会をしていたNHKのアナウンサーが静粛を求め、演説が再開された直後、突然、一人の若い男が壇上に駆け上がり、浅沼にぶつかりました。浅沼はよろけて倒れます。男は取り押さえられました。長い銃剣を持っていたため、浅沼の側近は負傷したのか見てみますが、一見無事のようでした。しかし病院へ連れて行くために会場を出て階段を降りる途中で絶命しました。左胸を刺され、動脈を損傷し、大量の内出血を起こしていたのです。NHKのテレビ放送は急遽番組を変更し、この刺殺場面を流しました。社会に大きな衝撃を与えたのは言うまでもありません。
浅沼委員長を刺殺したのは右翼少年の山口二矢。戦前の作家村上浪六の孫で、右翼の赤尾敏が率いる大日本愛国党の党員でした。日本赤化を阻止するという動機で浅沼委員長の暗殺を図りました。彼は同年11月2日、少年鑑別所で歯磨き粉を使って「七生報国 天皇陛下万才」と書き記したあと、シーツで首吊り自殺しました。17歳でした。


1974年
長嶋茂雄が現役引退を表明
王貞治と並んで、読売巨人軍のエースだった長嶋茂雄。国民的人気のあった彼は、前人未到の巨人軍9連覇の立役者となった人物です。しかし徐々に体力が衰え、成績も不振に陥っていきました。
中日ドラゴンズの優勝が決まり巨人の10連覇が消えたこの日、長嶋は現役引退を表明しました。
このため、翌日のスポーツ新聞の一面は長嶋引退の記事で覆いつくされ、せっかく優勝した中日の扱いは二の次となってしまいました。
翌日に試合予定だった中日戦は雨天延期となり、14日にダブルヘッダーの試合が行われることになり、これが長嶋茂雄の引退試合となりました。その席でもホームランを打つなど、十分な力量を見せますが、最後の打席は併殺打で終わりました。その後、引退セレモニーが行われ、かの有名なセリフ、「わが巨人軍は永久に不滅です」という言葉を残しました。


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2011年10月11日

10月11日の出来事

10月11日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1871年
ハインリッヒ・シュリーマンがトロイアの発掘に着手
トロイアは、イリオスとも呼ばれるギリシャ神話に登場する都市国家です。神話ではトロイアの語源となったトロースとその子のイーロスの領地で、イーロスが建設した都市がイリオスです。イリオスはイーロスの子孫が受け継ぎます。プリアモス王の子パリスは、天界で起こったヘラ、アテナ、アプロディーテの三女神の美を競う争いで審判を求められ、アプロディーテから「私を選べば最も美しい女を与える」という約束を得て彼女を選択したことから、スパルタ王メネラオスの妻ヘレネーを奪うことができた。しかし、これがもとでギリシャ諸都市軍(アカイア軍)の侵攻を招きます。戦いは10年に及びますが、アカイア軍のオデュッセウスが一計を案じ、巨大な木馬を作って兵士を潜ませて撤兵。イリアス市民は油断して木馬を引き入れ、中の兵によって軍勢を招き入れられ、都市は陥落しました。
この話は、19世紀には伝説と思われていました。しかし子供の頃この話を本で読んだシュリーマンはこれを真実だと考えて、のち事業で資金を得ると世間からバカにされながらも巨費を投じて発掘を行い、実際に都市を発見して成功を収めた、というわけです。
しかし実は、シュリーマンのこの話も、実はシュリーマンの功績を評価するための創作で、実際にはそれ以前から、その付近で発掘が行われていたという説もあります。もちろん、シュリーマンが都市の遺跡を発見したのは事実です。
シュリーマンが発見したのは、実際のトロイア戦争よりも古い時代のものでした。しかし彼は、考古学の専門家ではなかったことから、いい加減な発掘を行い、出土品を勝手に持ち出すなどしたため、時代の比定などが難しくなったといいます。
なお、イリオスの各時代の遺跡には戦乱のあともあるため、実際に戦争があったことは間違いないようです。


1881年
明治十四年の政変
この政変は、開拓使官有物払下げ事件をきっかけに起こったものです。
この事件は、北海道開拓使長官の黒田清隆が開拓使の官有物(投資額1400万円規模のもの)を、北海社に38万円(無利息30年賦)で払い下げるというものでした。実際には黒田と同郷の五代友厚が運営する関西貿易商会が運営に関わることになっていましたが、それが新聞(「東京横浜毎日新聞」「郵便報知新聞」)でスクープされると、世間で大きな問題となりました。ちょうど世の中では自由民権運動が盛んで、この問題も取り上げられます。政府部内でも大隈重信らが批判(大隈が新聞にリークしたとも言われた)。土佐系の三菱が払い下げを拒否されたのに、五代に認められたことから、薩摩閥の関係も批判されました。伊藤博文は大隈排除を決め、あわせて国会開設、払い下げの中止も決定しました。これは御前会議の裁許を経て公表されました。大隈だけでなく、慶應義塾出身者や、官僚らも排除されました。犬養毅や尾崎行雄、前島密らも下野しています。下野した人々は、政党を結成したり、実業界に転身したものもいます。
なお、黒田は閑職に転じましたが、この事件で政商というイメージのある五代友厚は、現在の大阪証券取引所や大阪商工会議所の前身組織を設立するなど関西経済の立役者となり、大阪では高く評価されています。


1941年
チトーがパルチザン活動を開始
かつてオスマン帝国に支配され、その後はハプスブルク家の影響下にあり、20世紀にはセルビア民族主義も台頭したバルカン半島は、第二次世界大戦で枢軸側の影響を強く受けました。枢軸国のブルガリアが各地を併合した上、クロアチアは独立してドイツと同盟し、1943年にはナチスドイツが侵攻しています。その枢軸体制に抵抗するパルチザンを組織したのが、のちのユーゴスラビア元首ヨシップ・ブロズ・チトー。彼はクロアチアの出身でユーゴスラビア共産党に入り、共産主義運動をしていました。チトー率いるパルチザンはナチスに抵抗するため、英米から支援を受けてゲリラ的に活動していましたが、英米だけでなくソビエトにも接近したことから、むしろ英米からは批判され、距離をおくようになります。大戦が終結すると、ユーゴスラビアを建国。主要国であるセルビアを主体にはしつつも、自身の出自からか、連邦に加盟する各国をバランスよく扱いました。さらにソ連のスターリンとも対立したため、早々に東側陣営から離脱。第三勢力の非同盟諸国のリーダーとしても活動しました。一方で秘密警察を使い、独裁的な権力を維持。連邦維持を優先し、所属国の独立民族主義を弾圧しました。このため、後に彼が死ぬと、タガが外れたようにユーゴスラビアは内戦・瓦解の方向へと向かうのです。


1947年
山口良忠判事の病死
終戦直後、日本政府は食糧管理法によって配給体制を維持していました。この法律は国民に米を安定供給するために戦時中に作られたものですが、戦争で輸入が途絶え、流通網が破壊された結果、都市部では特に深刻な食糧難に陥る結果となりました。人々は列車で地方へ出かけ、食料品を買い求めたり、闇市で購入したりしていました。一般にはヤミ米と称されます。当然、これは法律違反なので取締の対象となりました。
そんな中、ヤミ米を拒否し、配給食糧と畑で芋を作るなどして暮らしていた東京地裁の山口良忠判事が栄養失調で倒れ、その後結核を発して死亡する事件が起きました。これはいかにも食べ物がなくて餓死したかのように受け取られ、社会に大きな衝撃を与えます。いくらなんでも馬鹿正直すぎる、という批判もあり、当時の社会党政権、片山哲首相の夫人なども工夫が足りないと批判しています。一方で同情論も大きく、司法関係者などへの寄付も相次ぎました。
彼は立場上、食料管理法違反者を裁く側にいたため、ヤミ米を口にすることを拒否したわけですが、単に職務に忠実なわけではなく、食糧管理法による統制の問題に対する批判の意味もあったようです。事実、多くの司法関係者が食糧不足で危機的状況にありました。そのためか、ヤミ米で摘発された人へは温情判決を出していたと言われます。


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