2011年11月30日

11月30日の出来事

11月30日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1939年
冬戦争が勃発
第二次世界大戦勃発直後に、ソビエト連邦軍がフィンランドに侵攻したのが、冬戦争です。ソ連はフィンランドから砲撃を受けた、という理由で侵攻したわけですが、もちろん、それは表向きの大義名分で、実際は領土とフィンランド湾の支配が目標でした。フィンランドが、ロシアの支配下から独立した歴史があることも、侵攻の名分となりました。
スターリンは、ドイツの北欧制圧で連合軍の支援が困難になったことや、そもそも軍事規模では小国のフィンランドなら楽に制圧できると考えていました。それでも100万の兵力で攻め込みます。ところが予想外なことにソ連軍は大敗を喫します。数に任せて森林地帯を銃剣で進むソ連兵に対し、マンネルヘイム元帥が指揮したフィンランド軍兵士は白い服を着てカムフラージュしゲリラ的に応戦。武器もろくに無いので、ソ連軍から奪い戦いました。
ソビエト軍の大惨敗は、戦略のなさ、戦術のいい加減さ、準備不足が原因ですが、すべてスターリンの粛清に要因がありました。粛清によって優秀な士官らが根こそぎ失われ人材がいませんでした。その上、粛清に巻き込まれる形で、フィンランド人の共産主義者も大勢犠牲になり、同じ共産主義でありながら、彼らはソ連と敵対して祖国防衛のために戦い、ソ連が期待したフィンランド内での革命は起きませんでした。
スターリンはこの100%自らに原因がある敗戦に激怒して、ロシア革命以来の同志で友人であったクリメント・ヴォロシーロフに全てをなすりつけて処刑しました。
なお、1941年6月に戦争は再開されたことから、第1次ソ・芬(ソ連・フィンランド)戦争とも呼ばれています。第二次戦争でフィンランド軍は敗れ、領土の一部を失いますが、フィンランドが滅亡しなかったのは、ソ連軍に大打撃を与えた結果もあります。また、ヒトラーがソ連に侵攻したのは、この冬戦争でのソ連の体たらくを知ったからだとも言われています。
逆説的ですが、強大なソビエトが結局世界を支配出来なかったのは、その思想や経済システムの欠陥だけでなく、その強大さを創り上げたスターリンという暴君がいた結果でもあります。


1949年
対共産圏輸出統制委員会(ココム)設立
東西対立が深刻化し始めた1949年、西側資本主義諸国はソ連など対共産圏への輸出を規制・禁止するための監督組織、対共産圏輸出統制委員会(Coordinating Commmittee for Multilateral Export Controls=略してCOCOM・ココム)を結成しました。共産主義とは言っていませんが、事実上、対共産主義国輸出規制のためで、経済的な意味合いよりも、共産主義諸国への軍事技術・戦略物資を監視するのが目的でした。本部はパリに置かれます。対中国貿易統制委員会(CHINCOM)もここに吸収されました。規制品リストを作成し、それを元に輸出の監視を行います。
アイスランドを除く北大西洋条約機構(NATO)加盟諸国と日本、オーストラリア、ニュージーランドが参加します。
軍事的に優位に立つための戦略でしたは、一方で資本主義諸国としては、たとえ相手が共産主義国でも、企業の輸出活動を規制されるわけにも行かないので、規制をかける品目についてはしばしば対立の元になった他、輸出したあとに問題になる例もありました。
冷戦が終結しソ連が崩壊し、ロシアや東欧諸国との関係が良くなると、全く無意味になった上、むしろ貿易の障害になりかねないことから、1994年3月にあっさりと解散。兵器輸出規制協定については、1996年7月に設立されたワッセナー協約(『通常兵器及び関連汎用品・技術の輸出管理に関するワッセナー・アレンジメント(The Wassenaar Arrangement)』。新COCOMとも呼ばれる)に引き継がれました。


1977年
米軍立川基地の全面返還
立川基地は、東京の西部、立川市街地にあった巨大な航空基地です。
もとは、立川飛行場といい、1922年に陸軍飛行場として建設されたものです。鉄道の拠点だったことから兵員輸送や物資輸送に都合が良いため選ばれました。1929年には民間空港としても開港し、1933年に羽田空港が開港するまで、大阪などと旅客運行が行われています。その後は実戦部隊ではなく、併設された陸軍航空工廠や航空技術研究所などの航空研究機関として発展し、戦時中には福生に作られた多摩飛行場とともに実験機の開発を行い、米軍の標的にもなりました。
今も付近に点在する航空・車両メーカーの立川飛行機や昭和飛行機などはこの名残と言えます。
終戦直後に、米軍が接収(グライダーで乗り込んできたという説もあります)、今度はアメリカ軍の一大航空基地として発展します。滑走路も新たに2000m級を建設。フィンカム基地と極東空軍輸送飛行場という2つの基地が併設され、1956年に統合して立川基地となりました。立川市街は戦前の航空工業都市から基地門前町として発達します。
米軍ネットワークの貨物輸送、人員輸送の拠点となり、中には北朝鮮帰還事業阻止を図り日本での爆破テロ工作を行おうとした韓国の工作員も立川経由で日本に入っています。
徐々に時代はジェット輸送にシフトし始めますが、滑走路の長さが足りなかったため、北側への延長計画が発表されます。これに対し予定地となった砂川村で猛烈な反対運動が起こりました。この運動は大規模な反米闘争へと発展。駐留米軍の合憲性が裁判で争われる事態になります。拡張計画が停滞したことや、市街地にある立川基地の限界が露呈したことから、米軍は人家のあまり多くない旧陸軍多摩飛行場を大幅に拡張。横田基地として運用することにし、立川基地の機能は移されることになりました。1969年12月1日、最期まで残っていた第36航空宇宙救難回収中隊が横田飛行場への移動し、飛行機地としては終りを迎えました。空軍病院やランドリー工場、死体処理場などはその後も利用されましたが、1972年に陸上自衛隊立川駐屯地が発足し、1973年1月に「関東平野合衆国空軍施設整理統合計画」で立川飛行場は全面返還が決定、77年に32年ぶりに全面返還されました。
跡地は現在、自衛隊、海上保安庁、警視庁、消防庁の防災用航空基地と、昭和記念公園、昭和天皇記念館などに再利用され、周辺部も再開発が進んでおり、法務省の刑務所移転計画も進んでいます。


2009年
朝鮮民主主義人民共和国でデノミネーションを実施
経済的に深刻な状態が続く北朝鮮は、この日、通貨ウォンの100分の1のデノミを行いました。デノミネーションとは通貨のことを意味しますが、経済政策としては、通貨単位を切り上げたり、切り下げたりする改革をデノミネーション(略してデノミ)と言います。たとえばインフレを解消するために旧1万円を新100円にしてこの比率で国民の保有する貨幣を交換するといったことです。たとえば北朝鮮は1992年に「貨幣改革」として新旧の通貨を1:1で交換しました。
それに対し、2009年のデノミは一世帯あたり10万ウォンを上限として、新通貨に交換し、それ以上の貨幣は交換せずに政府が没収するというものでした。経済不振の中、闇市場が広がり、タンス預金で金を貯めようとする市民が増えたため、これが体制にとって都合が悪く、その金を没収することを経済政策と合わせることを考えた政府が、デノミを名目に行ったわけです。しかし上限をもうけたことで市民の間では不満が爆発。むしろ逆効果となり、政府は慌てて銀行預金者を優遇したり、旧10万ウォンに満たない世帯を特別扱いして「配慮金」として一人当たり新500ウォンを支給したりしましたが、市民の反発は収まらなかったらしく、事実上失敗に終わりました。朴南基労働党計画財政部長がデノミの失敗を理由に、処刑されましたが、実際には金正日の後継を目される金正恩が、後継者として実績を残そうとして強行されたとも言われています。
つまり、経済政策以前に、金王朝体制、金正日政権の維持が大前提で政策を行なっているため、体制そのものがすべての問題といえます。


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2011年11月29日

11月29日の出来事

11月29日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1585年
粟之巣の変(天正13年10月8日)
この事件は、東北の戦国大名、伊達輝宗が殺害された事件でした。
輝宗は、伊達政宗の父親。最上氏と姻戚関係を結び、権力を握っていた中野宗時を追放し、鬼庭良直と遠藤基信を抜擢して、領内を固めた人物でした。広範囲な外交政策を行い、織田信長とも交流しています。家督は政宗に継がせ、自身は敵対する上杉景勝と対立していた越後新発田氏の支援に乗り出します。ところが大内定綱の離反をきっかけに、政宗は蘆名氏と敵対し、逆に敵対していた上杉景勝と組むなど、輝宗時代とは方針を180度転換しました。
政宗は大内氏と姻戚関係のある二本松義継を攻撃します。この年10月、その勢いに押された義継は、政宗に降伏を申し入れますが、政宗はその所領を大幅に削減することを決めます。義継側は輝宗に政宗への執り成しを求め、政宗は処分の軽減を決定しました。同月8日、義継は調停のお礼のため、宮森城に滞在していた輝宗を訪問します。ところが、ここで義継は自分の身の危険を察知し、輝宗を拉致する挙に出ました。城内で刀を研ぐ兵士を見て疑惑を持ったとも言われます。義継は輝宗を連れて二本松城に戻ろうとしますが、連絡を受けた政宗の兵が追いつき、安達郡平石村高田付近の阿武隈川河畔で両者は戦闘となりました。この結果、義継も、人質となっていた輝宗も殺害されたわけです。輝宗が手を出せないでいる兵らに自分もろとも撃てと命じたとも、政宗が政策に口出ししてくる輝宗を疎ましく思ってこの際もろとも銃撃するよう命じたとも、追いつめられた義継が覚悟し輝宗を殺害したとも言われています。輝宗の死を受けて遠藤基信らが殉死しました。いかにも戦国乱世の悲惨な話です。
この事件は、輝宗が友好的に外交を進めていたことから、諸大名の警戒心を高め、佐竹氏や蘆名氏、さらに従属していた岩城常隆や、石川昭光(伊達晴宗の子)などの領主も離反し、戦いは泥沼化していくことになります。


1890年
大日本帝国憲法施行
日本が立憲君主制へと移行したのが、帝国憲法の制定。アジアではオスマン帝国についで2番目でした。
幕藩体制から、近代中央集権化するため、船中八策や五箇条の御誓文でも、すでに法整備のことが指摘されていました。人々の間でも自由民権運動などで私家版の憲法草案「私擬憲法」が次々と発表されています。
元老院も日本国国憲按を出し、大隈重信らも憲法案を出します。それに対し、伊藤博文や岩倉具視は、明治十四年の政変で大隈を失脚させると、独自の憲法案に取り組み、1881年10月12日に国会開設の勅諭が発された際には、国会開設の他に、憲法を示唆しています。伊藤博文は範としてドイツの憲法を研究しました。
草案は東京で伊藤、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らが検討を重ねていましたが、伊藤博文は当時首相として政治に当たらなければならず、なかなか進みませんでした。そこで、神奈川県金沢の東屋旅館に移って行うことになりますが、留守にしている間に草案の入ったカバンが盗まれる事件が起こって大騒動になります。そこで伊藤の別荘があった横須賀の夏島に移って作業することになりました。そのため夏島草案と呼ばれます。これをもとにして1888年4月に作られ、さらなる検討のために天皇のもと枢密院を設置し、自ら枢密院議長として審議を行った。審議は1889年1月に完了して苦労の末に発布されました。憲法とともに皇室典範、議院法、貴族院令、衆議院議員選挙法、会計法など基本的な法律も定められています。
憲法は、第1回帝国議会(会期翌1891年3月7日まで)の開会の日に施行されました。この日は議会開設記念日となっています。


1944年
空母信濃撃沈される。
信濃は、もとは大和型戦艦の三番艦(110号艦)でした。空母に改装することになったのは、ミッドウェー海戦で大敗し、主力空母の2/3に当たる赤城、加賀、蒼龍、飛龍の大型空母4隻を失ったことでした。空母を急増させるため、雲龍型空母を2隻同時に、横須賀で建造することを計画します。ちょうど横須賀第6ドックでは、110号艦を建造中。これを解体し、ドックを開けることを検討しますが、すでに70%が出来ていたため、解体は難事業。しかも110号艦用の46cm主砲を輸送する輸送艦「樫野」も撃沈されてしまい、戦艦の建造も遅れることになります。そこで両方の問題を解決する方法として、110号艦を空母にすることにしました。これが空母「信濃」となりました。
信濃は完成間近の大和型戦艦を改装したため、長さや幅は非常に大きな空母で、1961年にアメリカ海軍の原子力空母「エンタープライズ」が登場するまでは、史上最大の排水量を持つ空母でした。しかし、格納庫は一層のみ(多層にすると重心が上がって不安定になる)。搭載機数も固有の航空機には、新鋭の艦上戦闘機「烈風」18機、流星艦上攻撃機18機、高速偵察機「彩雲」6機、補用5機、合計47機と主力空母の半分程度と少なめでした(比較的大型の新型機を搭載するためという説や、もっと搭載機数は多かったという説もあります)。
東京湾内で離着艦のテストをした後、艤装や兵装を搭載するための工事が残っていましたが、横須賀が空襲される危険性が高まったため、呉の海軍工廠へ回航することになりました。護衛は駆逐艦の「雪風」「浜風」「磯風」。
アメリカ側は信濃の存在に気づいていませんでしたが、商船攻撃のために日本近海に来ていた潜水艦「アーチャーフィッシュ」に発見され、雷撃で少なくとも4本が命中。内装が完成しておらずケーブルなどが邪魔して防水ドアなどが閉められず浸水。曳航も失敗し、潮岬沖で転覆沈没。外洋での航海は、出港して17時間というあまりにも短い生涯を終えました。


1985年
国電同時多発ゲリラ事件
東京と京阪神の電車線区で、鉄道施設に対して同時多発的に起こされた、極左テロ組織「中核派」によるテロ事件です。
中核派のメンバーは、午前3時ごろに、8都府県内の22線区の線路の通信・信号用ケーブルを合計33カ所も切断したり、釘を打ち込んだりして通信機能を破壊しました。さらに東京の浅草橋駅に侵入して施設を破壊し、火炎瓶で放火しました。
これにより首都圏の山手線・京浜東北線・根岸線・東海道本線・横須賀線・中央快速線・青梅線・五日市線・中央・総武緩行線・武蔵野線・成田線・埼京線・川越線・南武線・常磐線・八高線・横浜線・相模線・東北本線・高崎線と、関西の大阪環状線・関西本線が運行できなくなりました。また国分寺駅に乗り入れている西武国分寺線が駅の信号が消えたために運休しました。
国鉄職員の迅速な対応で、夕方までにすべて復旧したが、首都圏で2896本、大阪地区で378本の列車が運休し、通勤通学客など600万人以上に影響が出るという前代未聞の事件となりました。
中核派が狙ったのは、政府が進めていた、国鉄分割民営化に反対していたこと。中核派は民営化反対の労働組合、千葉動力車労働組合を支持していました(犯行には国鉄の組合員も加わっていた)。
分割民営化に反対して引き起こされたこの事件。さすがにここまでの事件を起こされると都合が悪かったのか、職場である鉄道へのテロに反発したのか、民営化反対の国労も犯行を非難する声明を出しました。しかし、暴力的な反対運動は国民の猛反発を買い、皮肉にも分割民営化が加速する結果となりました。当然、すでに少なくなっていた極左運動への支持も激減する結果となりました。


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2011年11月28日

11月28日の出来事

11月28日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1694年
松尾芭蕉死去(元禄7年10月12日)
伊賀国(現在の三重県伊賀市)で、松尾与左衛門の次男。彼は幼くして地元の武士、藤堂新七郎良清の三男で、主計良忠に仕えました。年齢は良忠のほうが2歳上。良忠が松永貞徳や北村季吟について俳諧を学んでいたことから、芭蕉も俳諧をするようになりました。
ところが寛文6年4月25日(1666年5月28日)、良忠は25歳で死去してしまいます。芭蕉は良忠の遺骨を高野山におさめますが、これが原因で無常を観じたのか仕官を辞め、故郷を出て旅をしながら俳諧に専念するようになったといいます。延宝3年(1675年)に江戸に下り、神田上水の工事に関わったりしながら生活費を稼ぎ、創作活動を続け、延宝6年にはついに宗匠となりました。延宝8年には深川に草庵を結んで、そこに門人から送られた芭蕉を植えて育ったことから芭蕉庵と名づけます。蕉門十哲をはじめ多くの弟子を抱えるまでになりました。
天和2年、大火で芭蕉庵を失い、以降、しばしば旅に出て紀行文を記しました。その中の有名なものが、河合曽良とともに行った東北の旅、「奥の細道」です(この旅の日程の強行軍と、伊賀の出身者ということで彼が隠密と疑われることもあります)。旅の後、伊賀や近江、京を転々とし、江戸に戻りました(奥の細道が最後ではありません)。その後も旅を繰り返し、旅の途中に大坂で病に倒れ、病の床で詠んだ歌が「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」、これが辞世となりました。御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で亡くなりました。
この亡くなった日を桃青忌・時雨忌などと呼んでいますが、旧暦10月12日を、日付だけ抜き出して、新暦の10月12日に称しています。


1883年
鹿鳴館が開館
教科書にも記されている鹿鳴館は、東京の麹町区内山下町(現千代田区内幸町)に作られた日本初の洋式社交クラブです。井上馨が建設に推進し、命名は中井櫻洲(※)で、詩経の『鹿鳴の詩』から採りました。客をもてなすという意味です。設計はジョサイア・コンドル。かなり立派な建物でした。
ただし、夜な夜な、洋装をした明治の高官たちが、華やかなダンスパーティに興じた、というだけではなく、パーティは山川捨松らが行った慈善事業としても行われた他(捨松は鹿鳴館の華ともてはやされたといいます)、政府の祝賀行事も行われ、迎賓館としての役割もありました。ただ、この舞踏会が、西洋人から見ると滑稽で馬鹿馬鹿しい物に見えたらしく、外交礼儀上は何も言わずとも、ビゴーの風刺画に見られるように、西洋の猿真似のようにバカにされ、また国民がまだ貧乏な中、当然のように反発を買いました。井上の目的は、不平等条約の改正を目指すために、西洋列強と並ぶ文明国であることをアピールするつもりだったためなので、条約改正が上手くいかないことから、国民の批判を浴び、鹿鳴館での舞踏会は中止になりました。ただ、以降も政府の行事などは行われています。しかし結局、華族会館に払い下げ、さらに徴兵生命保険に売却されました。昭和15年、経営上無駄だとされてあっけなく解体されました。当時東京工業大学の助教授だった建築家の谷口吉郎はこれを批判し、のちに古い建物を保存する博物館として明治村の創設に関わることになります。
※井上馨の妻は、中井櫻洲の元妻という関係でもあり、井上も中井も外交官。


1979年
エレバス山墜落事故
かつてニュージーランドの観光業として、南極上空を遊覧飛行する観光ツアーがありました。1977年に初めて行われ、毎年南半球の夏にあたる11月〜2月ころにかけて行われました。1979年、この年最後の遊覧飛行は、チャーターしたニュージーランド航空901便ダグラスDC−10。かなり大型の旅客機です。南極に入ると、ロス島の上空を回り、島内にあるアメリカのマクマード基地を通過ポイントとして、戻るというコースを通ります。ところが天候が悪化し、しかも眼下は氷床という一種の「ホワイトアウト」に入り込んでしまい、有視界飛行ができなくなりました。パイロットは南極飛行の経験がなく、マクマード基地とのVHF交信が困難になったことから、山があるのではと疑問を抱くも、コースと高度を見失い、対地接近警報が鳴ったときには手遅れでした。旅客機は高速でエレバス山の山腹に激突、日本人乗客24名を含む257名全員が死亡しました。
救助活動は、場所が場所だけに困難を極め、二次遭難の危険の中、12月9日まで行われ、遺体が発見されなかった28人を除く残りをの遺体を収容。16人の身元はわからなかったものの、他は全員身元が判明しました。
事故原因は当初パイロットの低空飛行による操縦ミスとされましたが、その後、INS(慣性航法装置)への通過ポイント入力の変更とクルーがそのことを知らなかったことが原因とされ、航空会社の責任も問われました。当時は、まだGPSなどのシステムがなく、有視界飛行に頼るような時代でした。コストを掛けての回収が困難なため、機体は現在もエレバス山に残されています。


1985年
白洲次郎死去
近年、理想的な人物として人気のある白洲次郎。戦後、吉田茂のブレーンとしてアメリカと交渉した人物です。彼は芦屋の実業家、白洲商店(貿易商社)を興した白洲文平の子。白洲家は有数の大金持ちで、4万坪の大豪邸に住んでいました。
次郎は富豪のお坊ちゃんながら、父親譲りの乱暴で傲慢な性格で知られ、旧制第一神戸中学校時代(今の高校に当たる)にすでに高級外車を乗り回すなど、破天荒でした。渡欧し、歴史学を学ぶ一方、ストラッフォード伯ロバート・セシル・ビングと各地を自動車旅行しました。ところが白洲商店が倒産し帰国。英字新聞記者となります。のち、日本食糧工業などの役員を歴任し、海外赴任中に駐イギリス特命全権大使だった吉田茂と知り合いました。また、後に文化人として有名になった白洲正子(伯爵樺山愛輔の娘)と結婚しています。戦時中、南多摩の鶴川村(現町田市)に疎開し、武相荘(ぶあいそう)で家族と農業をしながら暮らしました(英国の貴族を真似て、政府から距離をおく「カントリージェントルマン」)。彼は権力者と近いことから、応召されず、戦場に行くことはありませんでしたが、吉田茂が中心メンバーだった反戦組織「ヨハンセングループ」に加わっていたとも言われます。これは英米派官僚や華族、実業家、海軍穏健派などが、東条内閣打倒、終戦工作を目標にして活動していた組織です(戦争によって国家社会主義と化し、ソ連と接近し共産主義を招くと恐れた)。終戦後、吉田茂が政界に出ると、彼も終戦連絡中央事務局に入り、GHQと渡り合います。真偽は不明ですが、昭和天皇のプレゼントをぞんざいに扱ったマッカーサーを怒鳴りつけたとも。従順ならざる唯一の日本人、と言われました。貿易庁が出来ると初代長官に就任。貿易が日本の将来を支える、と考え、通商産業省の設立に尽力しました。いわば今の貿易立国のシステムを築いたわけです。一方で外貨獲得のため、日本製鐵広畑製鉄所を英国へ売却する計画を立て、それに反対する実業家永野重雄と取っ組み合いの喧嘩までしました。
吉田茂は講和条約を締結して、占領体制を終わらせ、独立国として復帰することを目標にしていました。そのブレーンとして活動。講和会議の役人が作成した吉田の演説原稿が、米国に媚びすぎているとして書きなおしたという説もあります。
独立復帰後は、実業界に戻り、東北電力会長を始め、各企業の役員を歴任しますが、政界にはでませんでした。ゴルフクラブオーナーだったときは、客としてきた有力政治家を特別扱いしなかったり、自由奔放な妻の正子への悪口を残したり、エピソードに事欠きません。
良くも悪くも行動的で、美人の奥さんをもらい、国難にあたってはアメリカと渡り合い、しかも地位にこだわらないところなどが、かっこ良くみえるのでしょう。


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