2012年02月29日

2月29日の出来事

2月29日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1212年
法然死去(建暦2年1月25日)
浄土宗の開祖、法然は、美作国久米の押領使・漆間時国の子。9歳のとき、父が、明石源内武者貞明に殺害されるが、父の遺言で仇討ちを断念し、母方の叔父の僧侶観覚のもとに引き取られます。観覚は、彼の才能を買って、比叡山での勉学を勧めます。比叡山では、源光に学び、さらに皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けました。皇円のもとを辞し、比叡山黒谷別所で、叡空を師として修行。18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱も授かった。
承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験し、専修念仏の教えを説く浄土宗をひらきます。東山吉水に住んで教えを広め、親鸞らが学びました。
専修念仏とは、阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという教え。彼は国家仏教としてのあり方から離れ、一人一人を対象として教えを広め、女性にも布教しました。そのため、貴族から庶民まで広まっていきます。
養和元年(1181年)、焼失した東大寺の大勧進職に推挙されるほどになりますが、俊乗房重源を推挙し、自身は辞退しました。比叡山や興福寺と対立するようになり、さらに彼を信奉するものは、後鳥羽上皇の周囲にまで広がったことで、建永元年(1206年)、後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に院の女房松虫と鈴虫が、法然門下の遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵の念仏法会に参加し、出家して尼僧となり、しかも遵西・住蓮を御所に招いて泊めるという事件が起こり、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れたため、上皇は怒り、門弟4人を死罪に処し、法然、親鸞らを流罪に処しました。
土佐配流となるところ、九条兼実の庇護によって讃岐に変更され、まもなく赦免されるも、京に入ることは許されず、建暦元年(1211年)11月、ようやく許されたもののまもなく亡くなりました。


1896年
日本銀行本店が竣工
日本銀行は、日本の中央銀行。紙幣を発行する発券銀行。また通貨量の調整を行ない、為替操作のために市場介入を行います。国家機関のように思われますが、実は政府から独立した法人。公的資本と民間資本の両方によって成り立っています。日本銀行の原点は、三井銀行。そのおおもとである三井組は、維新政府の為替方を引き受け、金穀出納所御用達となります。為替会社を設立し、政府の意向を受けて銀行を創立します。紙幣の発行まで行なっていた三井組に対し、政府の方針が変わり、第一国立銀行が設立されます。それは発券銀行としての中央銀行というシステムを検討することになったため。三井も初の私立銀行となりますが、1881年、大蔵卿の松方正義は紙幣整理を断行し、政府紙幣を廃止して、三井の為替方も全廃し、兌換銀行券を発行する中央銀行、日本銀行が設立されました。
1896年2月、より利便性のある場所に、ということで、旧金座のあった日本橋本石町にあらたな本店が竣工しました。
設計したのは日本近代建築家の祖、辰野金吾で、ベルギー国立銀行を参考にして設計し、濃尾地震の教訓から耐震技術を施し、上部を軽量にし、壁や天井は煉瓦にして、その組み方も強固になるよう設計。その上壁に石貼りを施して強化しました。地下に分厚い壁に囲まれた金庫室が作られ、これは2004年まで使われていたそうです。
辰野金吾は日銀の京都支店や大阪支店、小樽支店なども設計しています。


1976年
日本初の実用衛星「うめ」打ち上げ
「うめ」は電離層を観測する衛星で、その目的は、電離層の状態を調べ、短波通信を効率良く行なうためでした。
国際磁気圏観測計画にも参加しています。
そもそも、1966年10月に行う予定だった郵政省電波研究所の電離層観測衛星計画からはじまり、NASDAが発足すると、そのまま計画が引き継がれます。ロケットはN−I。大型の液体燃料ロケット開発を急ぐため、国産をやめ、アメリカのデルタロケットを元にして開発されたもので、1975年9月9日に技術試験衛星きく1号が打ち上げられました。電離層観測衛星もN−Iで打ち上げることになり、1976年2月29日にN−Iロケット2号機で種子島宇宙センターから打ち上げられました。しかし、4月2日、前日からの全日照状態によってバッテリの温度が許容値を超えて故障。本格的運用を行う前に運用を終了する結果となりました。
しかし、テスト中の観測データは解析されて、世界で初めて電離層臨界周波数の地球周回分布を明らかにしています。


2000年
400年に一度の日、そして2000年問題
グレゴリオ暦で西暦2000年。コンピュータの故障が起きるのではないか、と懸念されたのが、2000年問題。略してY2K問題ともいいます。
コンピュータは初期にはメモリが小さく、余分なものは削りに削って使うよう、プログラムが開発されました。それを発達させたものが、1990年代にも使われていていて、それでは西暦すら下二桁だけで処理するほどでした。しかし2000年になったら、当然下二桁は00年となり、1900年に戻って処理されるため、誤作動を起こすのではないか、というわけです。
もうひとつ、グレゴリオ暦の特性で、閏日を追加する閏年は、4年で割り切れる年で、100で割り切れる年は入れないが、400で割り切れる年は閏年とするというややこしい設定のため、この設定をしていないと日付がずれて誤作動すると考えられていました。
さらにこれが「問題」となったのは、プログラムの開発された時代には想像されなかった、社会のあらゆるシステムがコンピュータ化されていたということ。その影響が大きかったわけです。そのため、対策が追いつかないだろう、という意見もありました。
そして、2000年の1月1日の最初の日に続いて、もっとも警戒された日が、まさに400年に一度の日である2月29日。
ほかにもいくつかの日が警戒されました。しかし、実際には、大きなトラブルは殆どありませんでした。一部、郵便貯金のATMが停止する、交通機関の改札や、アメダスの誤作動、古いビデオデッキやワープロで一部メモリに問題が起こるといったことが生じましたが、社会的混乱はなかったわけです。
実のところ、この問題は事前から想定されており、プログラムの改正や、フェールセーフ機能の対策が採られていました。また核ミサイルが勝手に発射されるなどといった、どちらかといえば危機感を煽り立てて興奮する評論家の説も飛び交い、そもそもの「問題」が大げさだったり、リアリティがなかったりしていたわけです。
また、大きな問題が起こらずに終わったあとになって、「なんでもなかったじゃないか、騒ぎすぎだ」などと声高に言う人も出ました。多くの専門家の対応が、問題を回避したということも評価すべきだと思われます。


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2012年02月28日

2月28日の出来事

2月28日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

紀元前202年
劉邦が皇帝に即位
中国の「漢民族」の祖国とも言えるのが、漢王朝。
漢を興したのが、高祖劉邦でした。劉邦は沛郡豊県中陽里(現在の江蘇省徐州市沛県)の出身。父は劉太公、母は劉媼といい、長男は劉伯(諱は不明)、次男は劉喜(字は仲)、三男が劉邦でした。劉邦の字は季。両親の名が太公・媼、子の字が兄弟順を意味する伯・仲・季と、明確な固有名も付けない農民階層でした。秦王朝の時代。彼は巡行中の始皇帝を目撃して、「男なら、ああなるべきだ」と言ったという。後のライバルの項羽は「取って代わるべし」と言ったので、よく対比されます。「侠者」となり、品はなく乱暴なものの、なぜか多くの人に慕われ、亭長という末端の役人となります。咸陽の工事のため、人夫をつれていくことになりますが、過酷な事業を恐れて人夫らは逃亡。劉邦も逃亡して隠れてしまう始末。その後、全土で反乱が起こると、沛の役人だった蕭何は、県令の相談を受け、人気のある劉邦を招いて反乱に加わるべきだと進言。県令は拒絶するも、住民は県令を殺して劉邦を受け入れ、反乱勢力の一つとなります。彼は江南から上がってきた項梁の軍勢に加わり、やがて項羽と並ぶ勢力となりました。項梁の戦死後、反乱軍のトップに立った項羽は、函谷関を目指し秦軍と正面から激突。それに対し劉邦は、迂回して武関から首都咸陽へ入り、秦王三世子嬰をあっさりと降服させました。彼が殺戮や略奪を行わなかったことも敵の評価を得たわけです。しかしこれが項羽の疑惑を招き、釈明のため、張良と樊會を連れて項羽と鴻門の会を行います。殺害の危機を逃れた彼は、項羽政権樹立で「漢王」とされ、辺境の漢中の地へと送られます。これが「漢」の原点です。しかし項羽が東へと去ると、秦の拠点だった豊かな関中へ進出し、以後、項羽との抗争が繰り返されました。劉邦の戦略は食料確保優先だったため、人々は付いてきます。さらに彼は、相手の身分や立場に関係なくその意見をよく聞いたために、張良や韓信、陳平など有能な人物が幕下に加わり、諸勢力に地位を約束して蜂起させるなど器の大きさを見せました。一方、自身が有能な項羽は独裁的で他人の言葉を聞かなかったために、いつしか情勢は逆転。垓下の戦いで項羽は滅びました。劉邦は、皇帝となり、秦王朝の郡県制に倣って郡国制(※)を敷き、旧諸王国の復活は認めず、統一国家を樹立しました。以後、中断を挟んで400年も続く大王朝となります。長い中国の歴史でも、全くの庶民から皇帝になったのは彼一人。それも「漢」が漢民族の祖とされる所以でしょう。
※郡国制は、中央集権的な「郡県制」と、劉氏や功臣の諸王・諸侯の領地である「国」を合わせて各地に置いた制度


1880年
横浜正金銀行が営業を開始する
貿易金融のための銀行として興されたのが、横浜正金銀行。正金というのは現金のこと。
きっかけは、西南戦争による出費を補うため、発行された政府紙幣と、新貨条例で定められた正貨(1円銀貨)との価値に格差が生じるようになり、また貿易によって銀貨の流出がひどくなったために、当時の財界から、貿易のための金融機関が必要だという訴えが相次いだことです。
そこで、元丸善商会社長で、第八国立銀行の設立に関わった中村道太を代表とし、国立銀行条例に基づいて、横浜正金銀行が設立されました。政府も出資した特殊銀行で、中村が慶応義塾出身で、福沢諭吉も設立に関わったことから、慶応出身者が経営に関わりました。1887年7月6日には、横浜正金銀行条例も公布。その後は貿易金融取引だけでなく、為替取引に関わることになり、植民地や中国での銀行券の発行も認められるほどになりました。しかし昭和恐慌の影響で打撃を受け、日中戦争が始まると、円と連動する独自通貨の発行で中国経済支配を目指す軍の影響下に置かれたため、設立当初の目的はほぼ失われました。終戦後、閉鎖機関として指定され、解散。為替業務は新たに設立された東京銀行に引き継がれ、同行は東京三菱UFJ銀行になっています。
横浜正金銀行の本店は、妻木頼黄の設計で、1904年に完成。歴史主義建築の代表的建物で、関東大震災で大きな被害を受けるも、修復されて残り、重要文化財に指定されて現在は神奈川県立歴史博物館となっています。


1947年
台湾で二・二八事件が起こる
1945年8月15日、日本は降服しました。日本の領有していた台湾の統治と日本軍の武装解除は、連合国の委託を受けた中国国民党政府が担当することになります。言うまでもなく、台湾を中国領とする蒋介石らの意向でした。
国民党軍が進駐した時、台湾住民、すなわち本省人は、同じ中国人による統治を歓迎します。しかし、国民党軍のモラルは乱れきっていました。まるで占領軍のように台湾住民に対し乱暴狼藉の限りを尽くし、それを訴えても、取り合ってもらえませんでした。
日本によって近代開発が進められ、産業振興や農業開拓が進み、治安もよく、官憲の腐敗も少なかった台湾では、日本人が支配者であったとはいえ、台湾人も高い教育を受けたものが多く、知識化していました。そのため、同じ中国人の国民党軍の民度の低さが大きな衝撃だったわけです。
更に国民党軍は、台湾の産業、資材を横領し、経済状況は急速に悪化。
そんな不満が高まっている中、台北市でタバコを売っていた女性が摘発され、許しを乞う女性に暴力を加え、商品と財産を没収します。タバコは中華民国になって以降は専売制に移行していましたが、大陸では自由販売になっていたため、その様子を見ていた台湾人は不当行為と批判。官憲側は住民に発砲。火に油を注ぐ事になり、各地でデモが起こります。デモ隊に無差別銃撃を加えるなど、事態は深刻化。台湾人は「君が代」を歌えたため、大陸から来た外省人を探すために君が代を歌わせ、外省人とわかると暴行します。さらにラジオ局を占拠して決起を訴えるなどしたことから、台湾行政長官兼警備総司令の陳儀は、話し合いに応じると見せかけて時間を稼ぎ、蒋介石に派兵を求めます。蒋介石は軍を派遣。医者、裁判官、学者、役人、学生など知識階級の本省人を次々と逮捕し、問答無用で殺害しました。日本に亡命した台湾人も多数います。
少なくとも2万8千人が殺害されましたが、実際にはもっと多いと言われています。日本は彼らを救うことは出来ませんでした。
この件は、長いこと台湾ではタブー視されます。しかし、民主化の進んだ李登輝政権以降は、政府も謝罪し、解明に向けて実態調査を進めています。


1972年
あさま山荘事件
1960年代後半の大規模な学生運動のあと、左翼学生らは、複数のセクトに分かれ、より凶暴化していきます。その中の一つ、京浜安保共闘から生まれた連合赤軍は、銃砲店を襲って猟銃と弾薬を奪い逃走。群馬県の山中で軍事訓練を行い、さらに少しでも幹部の意見に合わないものや、幹部の嫉妬を買ったものはリンチされて殺害されるなど、異常な方向へと転がり落ちていきます。
しかし警察の包囲網がしかれたことを知り、メンバーの坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久の5人は、山中を移動して長野県佐久市へ向かいますが、冬の雪山で方向を見失い、軽井沢の別荘地帯へ出てしまいます。
2月19日、別荘地帯にあった「さつき荘」に潜入した彼らは、捜索中の警察に発見され、銃撃戦になります。そしてさつき荘を出て、浅間山荘に逃げ込み、居合わせた管理人の妻を人質にします。
彼らは、連合赤軍最高幹部の森恒夫と永田洋子の釈放、そして自分たちの逃走ルートの確保を要求しようとしますが、吉野雅邦が反対し、結局籠城することになりました。山荘内には食料が保管されていて、比較的長期戦が可能でした。
包囲した警察は、説得を試みますが、発泡によって応じられたため、強行制圧に方針を変えます。
警視庁の機動隊が行ったのは、クレーン車からぶら下げた重さ1tの鉄球をぶつけて穴を開け、放水しながら突入するという作戦。
28日に突入を行なうも、犯人は銃や鉄パイプ爆弾などで応戦。警察側の死傷者が相次ぎ困難を極めますが、午後6時10分、山荘の3階に突入し、全員を検挙。人質を無事救出しました。
機動隊員2名、民間人1名が死亡、機動隊員26名、報道関係者1名が重軽傷を負いました。
その後、連合赤軍メンバーは全員逮捕されますが、1975年、日本赤軍によるクアラルンプール事件によって、坂東國男が「超法規的措置」で釈放されました。
この事件では、厳冬期の山間部での作戦に、警察側の食料としてカップヌードルが支給され、放送されたことから有名になりました。

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2012年02月27日

2月27日の出来事

2月27日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1593年
碧蹄館の戦い(文禄2年/万暦21年1月26日)
豊臣秀吉による朝鮮出兵の文禄の役。
その中で、朝鮮王朝の混乱もあり、日本軍は半島北部へと進軍しますが、そこへやって来たのが明軍でした。
明軍は平壌を奪還し、その勢いで次は漢城の奪還を目指します。その兵力はおよそ4万。指揮官は李如松、李朝側は高彦伯が指揮を取ります。
一方、日本軍は平壌での敗北後に混乱していましたが、各地の諸将と連絡を取り合い、その戦力を糾合することで、明軍を迎え撃ちます。その兵力もおよそ4万1千。指揮官は先鋒が宇喜多秀家、本隊が小早川隆景でした。
両軍が激突したのは、京畿道碧蹄館(現在の高陽市徳陽区碧蹄洞)。
明軍は開城に兵力を置き、騎兵と歩兵による兵力2万を先鋒として進ませます。平壌の戦いで日本軍は惨敗していたため、精兵はすでに残っていないという判断があったようです。
先鋒の宇喜多軍が明軍先鋒と衝突し、苦戦の末、これを撃退。明軍は再び進出してきたため、小早川軍が全面に出て、明軍を支えつつ引き寄せ、周辺に潜ませていた伏兵で側背から攻撃を仕掛けました。場所がぬかるみで、明軍の騎兵は実力を発揮できず、李如松は安東常久と一騎討ちするなど大混戦となりますが、ついに壊走。日本軍にはまだ漢城内に本隊の多くを残していました。
李如松は戦意を喪失し、日本側も食糧不足に悩まされており、石田三成らが出て両者は講和交渉に入りました。


1933年
ドイツ国会議事堂放火事件
この夜、議事堂前を歩いていた通行人がガラスの割れる音を聞き、不審な人物を目撃して警官に通報します。警官が来てみるとすでに火の手が上がり、それはやがて大きな火災へと発展。ナチスの党幹部らも火災を目撃、あるいは連絡を受けて、急遽駆けつけましたが、ヒトラーなどがその時点で、これは共産党員の仕業だ、と決めつけていました。
火災現場で、オランダ共産党員のマリヌス・ファン・デア・ルッベがうずくまっているのを発見。彼を逮捕します。しかしヒトラーやゲーリングはこれを彼の単独犯行とは認めず、共産党員による組織的なものとみなしました。
ヒトラー内閣が成立したばかりで、議会には共産党を始めとする左派勢力の議席も大きく、脅威とみなされていました。
この事件を利用して、共産党への弾圧が始まり、議員を拘禁しただけでなく、突撃隊によって次々と襲撃され、殺害される事態に発展しました。臨時国会が招集されると、ナチス党、ドイツ国家人民党、中央党は、全権委任法に賛成して成立。議会の議決なしに立法を行えるヒトラー政権の権限強化が図られました。
しかし、放火はナチスの自作自演ではないのか、という疑惑が諸外国で持ち上がりました。そのため、ルッベほか4名の裁判は難航し、結局ルッべ一人のみ死刑判決が出され、処刑されました。このことはナチス党幹部や保守的なマスコミを刺激し、より政権よりの司法制度へと変えられるきっかけともなりました。
なお、ルッベが真に放火犯なのか、冤罪なのかは、今もはっきりはしていません。


1942年
スラバヤ沖海戦
日本海軍と連合軍艦隊によって行われた海戦です。
東南アジアへの進出を図る日本軍は、マレー沖海戦やシンガポール攻略によって、同地域を徐々に支配下においていきますが、現在のインドネシアに当たるオランダ領インドシナもその目標となり、まずジャワ攻略のため、兵力を輸送することになります。護衛は第五戦隊で司令官は高木武雄少将。
それに対し、オランダ政府はすでに本国がナチスによって失われていたため、逃げる場所もなく、貴重な海外領土としてその防衛は絶対問題でした。しかし、すでに連合軍側の戦力は低下。最大の補給基地であるシンガポールも失われたため、日本軍へ応戦するには決定的に不足していました。連合軍側は、ABDA連合艦隊を結成します。Aはアメリカ、Bはイギリス、Dはオランダ、最後のAはオーストラリアで、同地域一帯の残存戦力の糾合でした。指揮官はカレル・ドールマン少将。
日本側はこまめに偵察を繰り返し、同日、支援のために移動中だった水上機母艦ラングレイを撃沈。さらにABDA艦隊を発見し、両艦隊は接触。砲雷撃戦となりました。蘭駆逐艦コルテノール、英駆逐艦エレクトラを撃沈、英重巡エクセターを大破させます。しかし、レンジ外戦法で遠距離攻撃を行ったため、魚雷も砲撃も殆ど命中しませんでした。翌日、旗艦の軽巡デ・ロイテルと、ジャワを雷撃で撃沈し、ドールマン少将も戦死しました。この戦いでABDA艦隊は武器も燃料も底を付き、戦力をほぼ喪失。3月1日、掃討戦が行われ、英重巡エクセター、英駆逐艦エンカウンター、米駆逐艦ポープを雷撃や砲撃で撃沈しました。日本側は駆逐艦1隻が大破したのみで、大勝利でした。ABDA艦隊の残存艦艇は脱出。同海域の制海権は日本のものとなり、上陸作戦は成功します。日本艦は漂流する連合軍将兵を救助し待遇するなど、余裕のある行動をしています。ただ、遠距離攻撃は消極的で敢闘精神が足りないと高木武雄少将や田中頼三少将らは批判を浴びました。


1976年
「サハラ・アラブ民主共和国」の独立宣言
この国は、アフリカの北西部、サハラ砂漠の西の端の海に面した地域で、西サハラ、と呼ばれています。
元々はスペイン領サハラで1884年12月26日に植民地が成立します。しかし当初から部族の反乱が相次ぎました。
隣接するモロッコは、フランスの植民地と、スペインの飛び地で成っていましたが、1956年にフランスから独立し、スペインも大部分の領有権を放棄します。西サハラはスペインが支配し続けますが、モロッコとモーリタニアは、同地の領有権を主張。地元の部族はアルジェリアの支援を受けて、ポリサリオ戦線(サギア・エル・ハムラおよびリオ・デ・オロ解放人民戦線 (Frente Popular de Liberacion de Saguia el Hamra y Rio de Oro=POLISARIO))が成立。そのゲリラ作戦にスペイン人は対抗策を講じるも同地の統治意欲を失っていきます。スペイン政府はポリサリオ戦線と協議し、国連も仲裁に乗り出して住民の意向を調査し、独立の方向へ動き出します。これにモロッコとモーリタニアは反発。特にモロッコは、1975年11月6日、市民35万人を越境させる「緑の行進」を実施。スペインは独裁者フランコがすでに病で、隣国ポルトガルが植民地戦争に嫌気のさした軍部による革命が起こったことを恐れ、鉱山の採掘権と漁業権の一定の確保により、モロッコ・モーリタニアと協議、マドリード協定が結ばれ、同地はモロッコ・モーリタニアの分割統治となりました。その際、住民との協議がなかったため、今度はポリサリオ戦線が反発。1976年2月27日にサハラ・アラブ民主共和国の樹立を宣言しました。モーリタニアはポリサリオのゲリラ攻撃に悩まされて領有権を放棄。モロッコ単独領有となります。モロッコは壁を建設して、ポリサリオ戦線や難民キャンプと国土の大半を分断。しかしサハラ・アラブ民主共和国はアフリカ連合加盟国の地位を認められ、モロッコは抗議して、アフリカ連合を脱退。国連には加盟していないものの、76か国がサハラ・アラブ民主共和国を承認しています。一方、モロッコの領有権を認める国はひとつもありません。
モロッコとポリサリオ戦線は、国連の仲介で1991年に停戦で合意。帰属を決める住民投票の実施が決定しますが、現在まで実施されていません。


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