2012年04月30日

4月30日の出来事

4月30日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1006年
超新星SN1006が観測される
太陽と月以外で史上最も視等級が明るい天体である超新星SN 1006が観測される。
SN1006というのは、超新星西暦1006年という意味。
史上で太陽と月に続く3番目に明るかった星です。そのため、世界中で記録されています。中国では『宋史』に、日本では『明月記』に見られます(記述は1230年(寛喜二年))。この記述に合わせて、有名なSN1054(現在のかに星雲)などの記録も見られます。ヨーロッパやイスラムなどにも記述があります。天文学の未発達だった古代・中世においては天体現象は吉凶を占うものであり、あるいは地上の出来事を予兆するものとみなされることが多かったために、記録が残されているわけです。一度光が弱まったあと、再び輝いたとされています。
米国アリゾナ州のホホカム族の岩絵にも、この超新星を描いたのではないかとされるものがあります。
超新星の残骸は、地球から約7175光年に淡い球殻状の星雲として残っています。


1827年
高田屋嘉兵衛が亡くなる(文政10年4月5日)
淡路島の農民の子として生まれ、漁業を経て、瓦船の乗員となりました。やがて廻船の船頭になり、廻船業への道を歩むようになります。
彼が目をつけたのが蝦夷地との交易。そのため、北方探検調査を行なっていた近藤重蔵、間宮林蔵、最上徳内といった人々に接近。幕府の蝦夷地交易を認められました。資金は北風家の支援を受け、蝦夷地や千島列島方面の新たな交易航路を築いて、各地で漁場を開き、アイスの人々を雇って教育するなど、事実上、幕府の開拓担当の立場になっています。
その結果、享和元年(1801年)、国後航路の発見・択捉島開拓の功を賞せられて、わずか33歳で幕府から「蝦夷地常雇船頭」に任命され、苗字帯刀を許されました。大火にあった箱館を復興整備し、造船所を建設して船舶の建造も行い、高田屋は大いに発展しました。
ところが、ゴローニン事件に巻き込まれました。ロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァーシリー・ゴローニンら8名が、測量に来ていて松前藩に捕らえられた事件でした。背景には何度も起こっていた日露の紛争がありました。
ディアナ号の副艦長のリコルドは、艦長らの解放を目指し、国後島沖で観世丸を拿捕し、高田屋嘉兵衛らを捕らえました。彼はカムチャツカ半島ペトロパブロフスク・カムチャツキーへ連行されました。翌年、日露は人質交換を行い嘉兵衛も帰国。人質交換には嘉兵衛のロシアに対する尽力もあったと見られ、帰国後も松前奉行を説得して、ロシアの人質になっている人々の解放を目指しました。
幕府の蝦夷御用船頭に任ぜられたのち、1818年に隠居し、店は弟の金兵衛が継いで、嘉兵衛は59歳で死去しました。


1900年
初めて『軍艦マーチ』が演奏される
『軍艦マーチ』は、1897年(明治30年)鳥山啓作詞の「軍艦」に曲を付けて軍歌としたものを、1897年(明治30年)頃に、軍楽師だった瀬戸口藤吉が新たに作曲し、1900年(明治33年)に「軍艦行進曲」として誕生したもの。
はじめて演奏されたのは、同年4月の、神戸での観艦式で戦艦富士の軍楽隊によって行われました。海軍の制定行進曲として、盛んに演奏されました。大正3年(1914年)1月、海軍省教育局は軍歌集『海軍軍歌』を発布。この編纂で瀬戸口藤吉は鳥山啓に収録の許可を求めて、その三男の嶺男に許可を得ました。鳥山啓はまもなく死去。
太平洋戦争勃発の臨時ニュースでも「軍艦」は開戦と各戦線での戦果の報道後に華々しく演奏されました。
戦争が終了後、一転してパチンコ屋の店内ミュージックとして、盛んに流されました。また海軍の影響を残しつつ設立された海上自衛隊では、儀礼曲として「軍艦行進曲」の名称で、進水式、出港式典、観閲行進曲などとして奏楽され、海外へ寄港した際に演奏されることがあります。


1945年
アドルフ・ヒトラーとエヴァ・ブラウンが自殺
敗色濃厚となったナチス・ドイツ。すでにポーランド方面、ハンガリー方面、ライン川方面から連合軍が侵攻しつつある中、ヒトラーは3月に入るとベルリンの総統官邸の地下施設に籠るようになりました。かつては国民の前に立って派手な演説を行なって扇動した彼は、優秀なゲルマン民族はすでに滅び、あとは劣等な人間だけが残るしか無い、として、敵に利用されるのを拒むために、国内の生産施設を全て破壊するよう命ずる「ネロ指令」を発しました、軍需大臣のシュペーアは直接反対し、更に命令も実行しなかったため、最後の作戦は行われずに済みました。この頃のヒトラーは日々主張することが変わり、支離滅裂な状態になり、肉体的にも衰えが目立つようになっていました。4月16日にはソ連軍の侵攻によってベルリン作戦が始まり、いよいよ終わりが近づいてくると、主要な幹部は皆ベルリンを去り、ゲーリングとボルマン、シュペーアの間で、降伏交渉をめぐって対立が起こります。4月29日に、ハインリヒ・ヒムラーが許可を得ず連合軍に降伏。ついにヒトラーは「遺書」を口述タイプします。その中で、大統領兼国防軍最高司令官職にカール・デーニッツ海軍元帥、首相職にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相、ナチ党担当大臣にマルティン・ボルマン党官房長を指名し、エヴァ・ブラウンとの結婚を宣言。30日、ヒトラーは愛犬を毒殺したのち、自室にエヴァ・ブラウンとともに入り、エヴァは毒を仰ぎ、ヒトラーは拳銃で自殺しました。遺体にはガソリンがかけられて火を付けられ、ひどく焼損しました。そのこともあり、ヒトラーは死んでいないという説がしばしば語られることになりました。


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2012年04月29日

4月29日の出来事

4月29日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1932年
上海天長節爆弾事件
満洲事変後、大陸に軍事進出を続けていた日本は、上海の共同租界近くで武力衝突が起き、さらに戦線が拡大していくことになります。
そんな状況の中、天長節、すなわち天皇誕生日の祝賀大会を行うことになります。大会は市内の虹口公園(現在の魯迅公園)において大観兵式と天長節祝賀会を併せて行うため、政治と軍事の首脳が集まることに。
それを知ったのが、大韓民国臨時政府の首班金九。大韓民国臨時政府とは、朝鮮の独立を進めていた組織で、金九はその代表。彼は尹奉吉をテロの実行犯として送りました。背後には中華民国の要人らも存在していました。
昭和天皇を狙い失敗した桜田門事件の経験から、強力な爆発物を用意し、それを投擲しました。
上海居留民団行政委員会会長の河端貞次が即死、上海派遣軍司令官白川義則大将が重症を負い5月26日に死亡。第9師団長植田謙吉中将・第3艦隊司令長官野村吉三郎海軍中将・在上海公使の重光葵・在上海総領事の村井倉松・上海日本人居留民団書記長の友野盛が重傷を負いました。野村中将は片目を失い、重光公使は右脚を失いました。
犯人の尹奉吉は、その場で「大韓独立万歳!」と叫んで自殺しようとして検挙され、軍法会議を経て12月19日午前7時に金沢刑務所で銃殺刑となりました。日本軍はフランス租界にいた安昌浩ら大韓民国臨時政府のメンバー17名を逮捕しました。


1967年
モハメド・アリが徴兵拒否を理由にヘビー級王座のタイトルを剥奪される
アマチュアボクサーで、1960年のローマオリンピック・ライトヘビー級金メダリストであったモハメド・アリ。彼はもともとカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニアという名前でした。リングネームもカシアス・グレイ。子供の頃に大事にしていた自転車を盗られた際に、警察に訴え出たところ、その警察官がボクシングを進めたのがきっかけではじめました。
彼は部類の実力を発揮し、アマチュアボクサーとして活躍しますが、ローマ五輪の金メダル取得からまもなく、プロに転向し、さらにネーション・オブ・イスラム運動に参加していることを公表。リングネームもムハンマドとアリーに倣ってモハメド・アリと改めました。彼はプロボクサーとしても活躍しますが、ベトナム戦争への徴兵を拒否禁固5年と罰金1万ドルを科せられ(1971年7月に最高裁で無罪)。それを理由にヘビー級王座のタイトルを剥奪されました。それでも負けずに各地で試合を行い、圧倒的な強さを誇りました。1981年12月11日、トレバー・バービックに判定負けし引退するまで数々の戦績を誇りました。
またボクシングの試合だけでなく、黒人差別の続く中、その地位向上と公民権運動に取り組んだほか、湾岸戦争ではイラクのアメリカ人人質解放のためにイラクを訪問するなど、政治社会的行動にも取り組んできました。自身は引退後にパーキンソン病に罹り、行動も難しくなりますが、彼の行為は社会で高く評価されるようになりました。


1973年
ツクダがボードゲーム「オセロ」を発売
オセロは、8×8の盤面に、表裏が白と黒のコマ(石)を、それぞれプレイヤーが白と黒に分かれて交互に並べていき、挟んだ相手のコマを裏返すことで盤面を支配していくゲーム。オセロを開発して発売したのは、長谷川五郎というボードゲーム製作者。オセロには元があり、19世紀のイギリスで生まれたとされるゲーム「リバーシ」。ルールはほぼ同じで、日本には明治期に伝わっています。日本ではこれを「源平碁」「裏がへし」などと呼んでいました。この源平碁を覚えた長谷川五郎が旧制水戸中学校(現水戸一高)時代の1945年ころ、牛乳瓶の蓋を使って制作したのがオセロの原点。その後、彼が徐々に広めていき、1973年商品化になります。この際に、白と黒でパンダ模様に当てはまることから、上野動物園のパンダ「ランラン・カンカン」という名前になるはずだったところを、長谷川五郎の父親で英文学者の長谷川四郎が「オセロ」と名づけました。これはシェイクスピアの「オセロ」の内容、つまり黒人(ムーア人)のオセロと白人のデスデモーナの夫婦を中心とした人々の陰謀と裏切りのストーリーになぞらえたもの。
これは商標化されているため、トラブル回避のため、オセロ以外の同様のゲームはリバーシと呼ばれることが一般的です。
オセロは石のサイズを最初の牛乳瓶の蓋の大きさになぞらえて、厳密に34.5mmと定めています。
なお、リバーシから派生したゲームとして、ニップというのがあります。盤面のデザインが円形に線が交差するものの、内容的にはオセロと同じゲームです。


2006年
富山ライトレール開業
富山市内を走る路面電車富山ライトレールは、もとは、1924年7月23日に開業した富岩鉄道という私鉄で、富山電気鉄道、富山地方鉄道富岩線を経て、戦時買収により国鉄富山港線となりました。朝夕の通勤通学時間帯には比較的利用者がある一方で、日中は閑散とした典型的なローカル線でした。JR西日本となったのち、この路線をLRT化する計画が持ち上がりました。
LRTというのは、軽量軌道(Light rail transit)のことで、北米の都市部で見られる専用軌道を走る低コスト高規格大量輸送鉄道路線で、日本で言うところのそれは、むしろヨーロッパの新型路面電車に近く、都市の中心ではいわゆる路面電車として、郊外に出ると一般的な専用軌道をやや速く走る鉄道として運行される、車体の低い低床路面電車のイメージがあります(こういうのをトラムトレインといいます)。富山ライトレールはこれを志向して、電気系統から軌道、車両などほぼ全面にわたって大幅に改良されてました。2006年3月1日にJRの路線が廃止され、あらたに地元に密着した駅を複数加えた上で4月29日にLRTとして開業されました。
車体は、新潟トランシス社製のLRV(超低床電車)、2両を連接したような形状の「ポートラム」TLR0600形7編成。
この種の鉄道は日本では新しく、大きな話題となりました。
モータリゼーションで都市部の路面電車も、地方のローカル線も多くが廃止になりましたが、21世紀に入ると、大都市圏では特に、自動車の乗り入れを制限した上で、新型路面電車の敷設開業計画が次々と生まれています。


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2012年04月28日

4月28日の出来事

4月28日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

866年
応天門の炎上(貞観8年閏3月10日)
平安京大内裏の応天門が突如燃え上がり、宮中は大騒ぎとなりました。
大納言の伴善男は、右大臣藤原良相に、応天門に放火したのは左大臣の源信である、と訴え出ます。その理由は、応天門を建設したのが自分たち伴氏であり、自分たちを呪って放火したものだ、というわけです。
実際の証拠があった、ということより、仲が悪く、地位を得るためにライバル勢力を追い落とす一種の陰謀だったということでしょう。藤原良相が左大臣に昇進し、右大臣には自分がなるつもりでいたようです。
藤原良相は、源信を逮捕するため、その邸宅を包囲しました。
藤原基経がこれを父親である太政大臣藤良房に告げたため、良房は清和天皇に源信が無罪であることを奏上。源信は無罪となりました。
その後、事態は一変。大宅鷹取が、伴善男と子供の伴中庸、雑色の豊清の3人が、応天門から出てきたのち炎が上がった、と訴え出ます。鷹取の子が善男の従僕生江恒山に殺されていたため、その恨みを晴らそうとしたと言われています。
今度は伴善男らが拷問を含む厳しい取り調べを受けます。彼らは自供しませんでしたが、9月22日、朝廷は伴善男らを放火の犯人として死罪を決定。罪一等を減じて流罪とし、伴善男は伊豆国、伴中庸は隠岐国に流され、連座して紀豊城は安房国、伴秋実は壱岐国、伴清縄は佐渡国、紀夏井は土佐国、伴河男は能登国、伴夏影は越後国、伴冬満は常陸国、紀春道は上総国、伴高吉は下総国、紀武城は日向国、伴春範は薩摩国にそれぞれ流され、古来よりの名門の伴氏(大伴氏)と紀氏は衰退し、藤原良房はまもなくの8月19日に、清和天皇の「摂行天下之政」の詔を受けて、人臣最初の摂政となりました。伴善男も当初陰謀でライバルを陥れようとしたことになりますが、結果論として言えば、藤原氏による他氏の排斥事件だったということになります。


1945年
ムッソリーニの最後
国家社会主義的な独裁政権をファシズムといいますが、そのモデルとなったイタリア・ファシスト党を起こしたのが、同国の政治家ベニート・ムッソリーニ。父親の思想から社会主義や無政府主義の影響を受けた彼は、イタリア統一の英雄ガリバルディや、スイスに亡命中のレーニンとも知り合いになり影響を受けた結果、左派政治家として活動するようになり、のち民族主義者となりました。1922年10月27日のローマ進軍によるクーデターを経て、王国の第40代首相としてファシスト政権を樹立します。1925年12月24日に独裁体制を確立、統帥職を創設して初代統帥となり統治にあたりました。当初は経済政策の成功やマフィアの取締で、まるで映画スターのように異常なほど国民に人気があり、ラテラノ条約の締結によってローマ・カトリックとの和解にも成功しています。しかし、経済政策は行き詰まり、国民の支持を失うことを危惧した彼は、海外進出と軍事政策に偏ることになりました。しかし第一次世界大戦レベルの軍隊と遅れた軍事技術によって、ギリシャ遠征や北アフリカ遠征に失敗するなど、おそまつさを見せます。同盟を組んだナチス・ドイツを当初はバカにして、ナチスほどの極端な人種政策を否定するなどしていますが(オーストリアのドルフース首相と親しく、領土も接していたことから、1934年7月25日のナチスによるドルフース首相暗殺事件に反発していた)、後にはドイツの政策を真似るようになりました。
連戦連敗により、連合軍がシチリアに上陸を始めると、動揺したファシスト党内のクーデターで失脚し捕らえられますが、ナチス・ドイツ軍の侵攻で救出され、北イタリアにイタリア社会共和国(サロ共和国)を建国し、国家統帥兼外務大臣として統治に当たり、同地では非常に高い支持を得ますが、ドイツの敗戦も間近になった中、政権は崩壊して、スイスへ逃亡中、思想的・宗教的には近かった共産パルチザンに捕えられ即決裁判により銃殺され、遺体は愛人クラレッタ・ペタッチとともにミラノで吊るされて晒し者にされました。しかし、ヒトラーと異なり、イタリア(特に北部)では今でもムッソリーニの支持は非常に高く、孫のアレッサンドラは極右政治家として活動しています。


1947年
コンティキ号の冒険
南米の原住民と南太平洋のポリネシア人は、人種・文化的に似た特徴を持っていることは、同地に至った西洋人によって認識されていましたが、ポリネシア人の起源については諸説あり、定説はありませんでした。そこで人類学者トール・ヘイエルダールは、彼らが南米から船に乗って渡ったと考えるようになります。しかし、粗末な船しか無いはずなのに、そのようなことが可能なのか、という疑問に対して、実際に出来るかどうかを試してみたのが、西洋人が記録した南米の船をもとに制作した大型の筏、コンティキ号で、1947年4月28日、5人の人間と1羽のオウムを乗せてペルーのカヤオからイースター島を目指して出港しました。機械的動力のない帆船筏で進むこと102日、1947年8月7日にツアモツ諸島のラロイア環礁で座礁し、一定の証明を達したとして大きな話題をさらいました。
ただし、この冒険には注文が付いています。というのは、出港直後、ペルー沖合を流れるフンボルト海流を超えるまでの約80kmは軍艦の曳船に引っ張ってもらってことや、素材をきちんと選定していないこと、食料の確保まで細かく計算していたわけではないことなどから、帆船筏ではむりではないか、というわけです。
現在は、遺伝子的な解析から、ポリネシア人は、アジアから島々を経て渡ってきた海洋民族ということがほぼ判明しており、南米からの渡来人ではないというのが定説。ただし、南米とポリネシアとの間に交流がなかったということにはならず、西洋人が来る前にすでに南米産のサツマイモがオセアニア一帯に伝わっていることから、ポリネシア人が南米・北米に行き着いた後、戻ってきた可能性を指摘する研究者もいます。また、ポリネシア人が太平洋の離れた島々を渡る高い航海技術を持っていたことから、筏レベルではなかった可能性も指摘されています。
そういう学術的問題点はあるとしても、ヘイエルダールが実証主義的に確かめようとしたこの冒険そのものは今も高く評価されています。


1988年
アロハ航空243便事故
機体が大きく破損しながら墜落しなかった奇跡的な旅客機の事故が、アロハ航空243便事故。ボーイング737−200クイーン・リリウオカラニ号は、乗員5名、乗客89名を乗せてハワイのヒロ国際空港からホノルル国際空港へ向かって離陸。午後1時48分頃、マウイ島付近の太平洋上空24000フィート(約7200m)で、突然、機体前方左側の外壁が金属疲労によって穴があき、機内を歩いていた乗務員が気圧差で吸い出されて穴をふさいだため、流れのある圧力管内で急に蓋をした時に起こる水撃作用に似た状態となって、発生した高圧に老朽化した機体上部が次々と崩壊、主翼付近まで胴体の上半分が吹き飛ぶという前代未聞の事故が起こりました。このため、吸い出された客室乗務員1名が消息を絶ちましたが、乗客はベルトで固定した状態だったため助かりました。もうひとり、機内を歩いていた乗務員は偶然機体に引っかかって重症を負うも飛ばされずに済み、乗客がその体を抑えて助かりました。また座っていた乗務員が乗客に声をかけてパニックを防ぎます。しかし、高度が高すぎたため、異常な寒さと低酸素状態に置かれてしまいます。といって、機体は大きく失われた上に変形して、強度は極度に落ち、急激な運動は、機体が分解するおそれがあるため、慎重な操縦が必要となりました。幸運だったのは機体下部のケーブル類が無事だったため、操縦ができたこと。マウイ島のカフルイ空港に緊急着陸を試み、通常と違い速度を落とすことが出来ないまま滑走路に進入しましたが、衝撃で機体が崩壊することもなく無事に着陸できました。乗員乗客は全員、低温高風圧に晒されて重症を負いましたが、行方不明者1名を除いて、まさに奇跡の生還となりました。


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