2014年09月21日

悪人列伝−戦後民主主義の斜め上を行った男、皇帝ボカサ

第二次世界大戦は、その規模、兵器の発達などの特徴の一方で、世界の勢力図を大きく塗り替えた戦争でもありました。
戦後は東西冷戦の二極構造となる一方、植民地が次々と独立を果たし第三勢力へとつながったのも、大戦で宗主国が国力を衰退させたことなどが背景にあります。
そして、政治思想的にも、それまで主流だった君主制がその意義を失っていき、戦後も君主のいる国は王の政治権力を弱めた立憲君主制として、また王を廃立して共和制へと移行する国も増えていきました。
そんな中、戦後になって王制になった国もわずかに存在します。
たとえば、フランコ独裁政権から立憲君主制へと移行したスペイン。しかしこれは、元々スペインの王朝だったボルボン朝が復位したともいえ、政治は民主制を取り、王位は一種の象徴とも言えるものでした。
しかし、本気で君主制に移行し、それもあろうことか、皇帝になろうとした男がいます。
それが、中央アフリカ帝国皇帝、ボカサ一世。

ジャン=ベデル・ボカサは、フランス領赤道アフリカのムバカ族の族長の家に生まれました。一族は独立運動を展開していました。彼自身は自由フランス軍の兵士として活躍した後、従兄弟で独立した中央アフリカ共和国初代大統領となったダヴィド・ダッコに呼ばれその軍を指揮することになります。ダッコもまた、一族の独立運動家(※1)でボカサの叔父でもあるバルテレミー・ボガンダに誘われて政治の世界に入った人物であり、ボガンダが独立直前に飛行機事故死すると跡を継ぎ、1960年8月13日、宗主国フランスの後押しで中央アフリカ共和国は独立。初代大統領になりました。ところがダッコは国内を統制できず、経済政策も失敗。汚職が蔓延し、また反対勢力を抑えられなかったため、国力は衰退の一途をたどります。アフリカの独立国の多くが、皮肉にも植民地から脱したことで経済的に不振になる例は相次ぎましたが、中央アフリカ共和国も同じでした。

ボカサはそんな状況を受けて1966年、クーデターを起こして全権を掌握。もっとも、従兄弟であるダッコを殺したり、追放したりはせず、政権に取り込みます。
ボカサは軍事独裁政権を樹立すると、外交力を駆使して、ザイールなど周辺国を始め、ソ連や東欧諸国の共産圏、ユーゴスラビアなどの第三国と友好関係を築き、黒人でありながらアパルトヘイト政策を推進した南アフリカとまで関係を結ぶほど。
中でもフランスとの関係は大きく、もともとド・ゴールの部下だったこともあり、その葬儀には自由フランス軍の軍服を着て出席。国内の鉱物資源の利権を餌に、時に駄々をこねながら、フランスの有力政治家らとのコネクションを活かして経済支援を取り付けます。しかし、その経済政策はダッコとさして変わらぬまま。フランスからの支援も、同族経営の企業があげる利益もみな懐に入れ、贅沢三昧。危機感をもった軍部がクーデターを起こそうとすると、軍・警察の幹部を粛清。政権樹立に貢献した閣僚らも次々と罷免・処刑し、そのポストの多くは自分で兼任しました(※2)。

政治権力として弾圧するだけでなく、自らも刑務所へ赴き、収監されている政治犯らを直接殺したと言われています。刑務所には小中学生まで収監され、その子どもたちを自ら拷問にかけたとも。後には人肉を食したという噂も流れました(※3)。
彼は、1972年には終身大統領、そして1976年12月4日、国号を中央アフリカ帝国と改め、皇帝へ即位します。
彼の理想はフランス皇帝ナポレオン。
即位1年後、準備万端、戴冠式が行われました。バチカンでローマ教皇から戴冠してもらうつもりだったが断られたと言われ、昭和天皇とイランのモハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝を招待しましたが、どちらも参列しませんでした(※4)。式典は国家予算の2倍、フランスから料理人を多数連れてこさせ、ドイツからは多数の高級車を持ち込み、熱帯の国なのに豪華な外套を着て、宝石を散りばめた王冠をかぶり、ダイヤモンドを多数はめた杖を持ち、8頭立ての馬車に乗って高級車100台以上を従えてパレード。豪華絢爛な式典を行いました。この様子はテレビ中継され全世界へ放映されますが、あまりの贅沢ぶりに、アメリカ政府は呆れて支援をうち切ってしまいます。批判に対しても、ボカサは「偉大な歴史は、犠牲なくしては創造できない。民衆は犠牲を甘んじて受けるのだ」と豪語します。
フランスのジスカールデスタン大統領は賄賂と鉱山権益を受けて、金銭的支援をし、「皇帝」を承認しました。

皇帝となった彼は、ますます贅沢三昧、粛清の嵐、30歳以下の国民を与党の党員とし、政治学の講義、教育を全面禁止し、贅を尽くすためなら護衛の警備兵の給与までケチってしまうという始末。
父親の無茶苦茶ぶりに、とうとう息子のジャン=ベデル・ジョルジュ皇太子までが批判を展開して国外追放されます。ボカサは猜疑心にとりつかれたでしょう。
国内の不満は頂点に達している中、彼は自らデザインし同族企業の作った制服を小学生に義務化させようとしました。これに反発した市民がデモを起こしたところボカサはこれを武力鎮圧。子どもを含む400人以上が死亡する事件になりました。この結果、さすがのフランスも自国への波及を恐れてかこれを批判、援助を拒否します。
経済的にさらに追い詰められたボカサは、イスラム教に改宗して、アラブ諸国からの支援を取り付けようと画策。サラー・エッディン・アフメド・ボカサと名乗り、リビアのカダフィの元へ交渉に出かけます。カダフィはこれを歓待しました。
ところが、
この外遊のさなかの1979年9月20日。フランス軍主体でダッコを担ぎだしたクーデターが勃発。中央アフリカ帝国はあっけなく崩壊しました。
ボカサはよりにもよってそのフランスへ亡命しようとします。知己の多いフランス政府を動かして復帰しようとますが、さすがにうまく行かず、腹をたてた彼は、ジスカールデスタン大統領との関係をマスメディアに暴露し、フランス政界を揺るがす大スキャンダルに発展しました。

コートジボアールに亡命した彼は、かつてフランス軍にいたことからその恩給で暮らしました。1986年、周囲の反対を押し切って帰国。逮捕され死刑判決を受けます。1993年恩赦で減刑。1996年11月3日に病気で死去しました。75歳。多くの人を犠牲にした独裁者は因果応報を受けることもなく寿命を全うしたわけです。
2010年12月、中央アフリカ大統領フランソワ・ボジゼにより、ボカサの名誉回復がなされました(※5)。

現代でも、国際情勢のはざまをうまく利用した独裁者は複数存在し、昔と変わらぬ狭小な視野で贅を尽くし、少なからず市民が抑圧を受けています。彼らは皇帝の称号こそ名乗りませんが、専制という意味では同じでしょう。
しかし、民主化が進んでいた20世紀半ばという時代に、時代錯誤な「皇帝」となったのは、後にも先にも、ジャン=ベデル・ボカサしかいませんでした。彼が夢見たのは、まさに物語の中の「王様」だったのかもしれません。

※1:ボガンダが起こした組織が黒アフリカ社会進歩運動 (MESAN) で、アフリカ中央部全域を領土とするラテンアフリカ連邦を構想していた。
※2:16のポストのうち14を兼任したという。
※3:クーデター後、フランス軍の兵士らが、ボカサの宮殿にある冷蔵庫などから遺体を見つけたと公表したため。ボカサを貶めるための捏造とも言われる。
※4:国際的な慣習で、天皇家とパフラヴィー家は「Emperor」の称号で呼ばれていた。パフラヴィー朝はイスラム革命で失脚したが、天皇家は今もそのまま。なお、この「Emperor」は厳密には「king」の上に位置するものであって、中国語で言うところの「皇帝(「地上」を唯一支配するもの)」とは同義ではないが、そもそも中国の「皇帝」の定義も時代によって異なる上に、適当な訳語もないので、近代以降、同義として使われている。
※5:第6代大統領ボジゼはボカサ皇帝時代の軍の准将。
ラベル:悪人 世界史
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2014年05月25日

悪人列伝−「皇帝」を作った男−贏政−

中国における歴代帝国全王朝を通して、まさに最初の皇帝だった男、自ら定めた称号「秦始皇帝」を名乗ったのが、贏政です。一般には始皇帝で通るため、贏政(えいせい)という名だったという事自体、知らない人も多いでしょう。絶対権力者として、人々を苦しめたイメージがあります。

古代中国では都市国家から発展した殷(商)、その殷に代わった周も都市国家のゆるい連合体のような体制でした。周王朝の後半、春秋時代には少なくとも200の大小都市国家が存在していました。この頃周王朝は縮小衰退し、代わって比較的規模の大きい地域国が覇を競い合うようになります。戦国時代に突入すると、弱小国から次々と併呑されていき、最後に残ったのが秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙の七雄と呼ばれる大国と形式的に残っていた周、衛だけになります。この七雄も攻防の末に、最も西域にあり、最も異質の文化を持っていた秦の一強時代となりました。贏政はその時代に秦王となります。
それまで、どれかの国の王が他を圧倒する力を持っても、それは単に「覇者」であって、王の統一国家ではなく、連合体の指導者に過ぎませんでした。しかし贏政はほかの6カ国を滅ぼすと、中国史上初めて「統一王朝」を打ち立てました(※1)。

贏政の出自は決して良いものではありませんでした。
秦の昭襄王の次男だった安国君(のちの孝文王)の子で趙の国に人質に送られた子楚(当時の名前は「異人」)が、贏政の父です。王族とはいえ一朝有事の際にはあっけなく殺されかねない立場でした。昭襄王がしばしば趙と争ったため、ほとんど見捨てられていた子楚は冷遇され貧窮していたといいます。
その子楚を支援したのが大商人の呂不韋。彼は子楚を見て「これ奇貨なり。居くべし」(これは珍しいものを見つけた、手に入れておこう)と言い、支援します。いわゆる「奇貨居くべし」の故事です。もちろん、投資に見合う価値を作るため、呂不韋は秦まで行くと、安国君の正室華陽夫人に取り入ります。華陽夫人は子に恵まれなかったため、将来に不安を感じていたところ。呂不韋の進言に乗り、子楚を跡継ぎに決めます。子楚は名も「異人」から楚国出身の華陽夫人にあわせて「子楚」に改めました。子楚は呂不韋に対して高い地位を約束しますが、一方で呂不韋が囲っていた愛人「趙姫」を欲しがります。呂不韋はしぶしぶ女を与えました。この趙姫が産んだ子が、贏政です。
「史記」には、贏政が、子楚の子ではなく、呂不韋の子という説を取り上げてます。ただ、記録上は子楚の子である方が矛盾はないといいます(※2)。
昭襄王が趙を攻めたため、子楚は邯鄲を脱出し秦に逃げます。幼い贏政と母親は取り残され潜伏し非常に苦労しました。この時の環境が贏政の性格を形作る要因とも考えられます。昭襄王が死に、安国君が即位して孝文王となると子楚は後継者に選定されますが、孝文王はたった3日で急死。子楚が王位を継いで荘襄王となりました。これを受けて、趙は贏政を秦に送り返します。
荘襄王は3年後に死に、贏政が13歳で即位しました。少年王の後見として、呂不韋は相国となって国政を担いました。彼の目論見は成就したわけです。

ところが贏政22歳の時に大事件が起きます。贏政の母親、太后となっていた「趙姫」が愛人との間に子を二人も作っていたのが発覚したのです。実は趙姫は子楚の妻となってからも、呂不韋との関係は続いていました。趙姫に迫られ困った呂不韋は彼女にロウアイという巨根の男をあてがいます。宴会芸として一物を車輪の穴に通して回したという逸話の人物。呂不韋はロウアイを宦官と偽って宮中に入れ、旧都雍の離宮で趙姫と過ごすようになります。この事は、密告があったとも、贏政が元服の儀式で雍を訪れて発覚したとも、ロウアイが反乱を起こそうとしたとも諸説あります。贏政は激怒し、ロウアイ一族は殺され、呂不韋も地位剥奪の上、蜀の地へ流刑にされそうになったため、服毒自殺しました(※3)。贏政が呂不韋の権力と豊かな人間関係を恐れたという見方もあります(※4)。

贏政は実権を掌握すると、李斯を抜擢して法家主義でもって国内の制度を整え、内外の人材を集め、灌漑事業を進めて生産力を高め、強力な軍隊を組織します。思想的には韓の公子であった韓非のマキャベリズムな思想を尊崇し、韓非も故国と一族に失望しており、贏政に期待を寄せていました。しかし韓非は同門でもある李斯らに陥れられて自殺。贏政は韓非の故国である韓を前230年に攻め滅ぼしました。
続けて前229年、趙の国を攻めます。事前に趙の重臣郭開への買収工作を進め、有能な人材を粛清させるよう仕向けたことで、趙もあっけなく秦の前に滅亡。贏政は生まれ故郷の邯鄲に入ると、母を貶めようとした人々を探しだして生き埋めにしました。
趙が消滅したことで、韓・趙と同じ晋から分立した魏と、北方の燕も秦の脅威にさらされます。燕の太子丹は、幼いころ趙の邯鄲に人質としていたことがあり贏政とは幼なじみでしたが、秦に赴いた際に冷遇されたため恨みに思っていました。丹は贏政の暗殺計画を企て、前227年、秦からの降将樊於期の首と督亢地方を割譲すると称してその地図を荊軻に持たせて降伏の使者と偽り贏政に会見させます。荊軻は地図でくるんでいた刀で贏政を殺そうとしますが寸前で失敗。怒り狂った贏政は燕の都薊を攻め落とし住民を殺戮します。燕王と太子丹は遼東に逃れますが、丹は秦との和睦を望む父親に殺され、その燕王も捕らえられ、燕は滅亡しました。
前225年、贏政は魏の都大梁を包囲。水攻めにして3ヶ月後にこれを陥落。
前224年、ついに最大の敵、楚との攻防が始まります。贏政は若く血気にはやる李信と蒙恬に指揮させますが大敗。代わって老将軍王翦と蒙武にほぼ全軍の指揮を任せ、60万の大軍で攻撃。前223年、楚を滅ぼしました。前222年、燕の残存勢力を滅ぼしています。
最後に残った斉に対しては、趙の時と同様、買収工作を進め、前221年、大軍を発して攻め寄せます。斉は工作が功を奏して戦わずして降伏。同年、東越も服属させてついに天下統一を達成しました。

統一後、重臣らと諮り、皇帝の称号を新たに作り、秦始皇帝と称しました。旧王国を解体し、秦の制度だった郡県制を全土に敷き、その行政官を各地に派遣して中央集権体制を強化します。
各国でまちまちだった度量衡、通貨、車の軸幅、数の単位表記、文字・書体を統一します。これにより意思疎通、経済活動がよりスムースに行えるようになりました。
一方で、すでに建設を進めていた生前陵墓の驪山の工事、阿房宮の建設、各国が建設していた長城をつなげる事業(万里の長城)、運河「霊渠」の開削など、大規模な土木工事のために全土から人民を徴用しました。のちの漢の高祖劉邦も、小役人だった頃に労働者を連れて行く仕事をしています。人々はこれを嫌がり、逃亡者も相次ぎますが、法によってこれを厳しく取り締まります。
始皇帝は全土を数度にわたって巡察しました。そのための専用道路まで作らせています。途中、各地で刻石を彫らせて自分の事跡を誇示し、また泰山に登って天帝に報告する封禅の儀式も行いました。
この巡察の途上、博浪沙で飛来してきた重りが副車に激突する事件が起こりますが、これは、のちに劉邦の軍師となった張良による暗殺計画でした。

始皇帝はこの頃から不老不死を求めるようになっていたともいいます。そのために神仙思想を唱える怪しげな方士らの話に乗って神仙を探す金を与え(日本に来たともいう徐福が有名)、自らは水銀を飲んだりしたとか。この水銀に因る中毒が死因という説も。
始皇帝は、淳于越が郡県制を止め古い封建制に戻すよう上奏したことをきっかけに、李斯らの主張を入れて、現実的に必要な書籍を除き、政策の障害となる「古い書物」を全土で焼却処分させます(焚書※5)。また方士の廬生らの口車に乗せられて「真人」(不老不死の超人)から不老不死の秘薬を得ようとしますが、一向に現れず(※6)、盧生は始皇帝の政策を批判して逃走。始皇帝はこれを怒り学者ら460人余を生き埋めにしました。これがいわゆる坑儒であり、現在では焚書坑儒は思想弾圧の代名詞となっています(※7)。焚書坑儒を諌めた始皇帝の長男扶蘇は前線に送られました。
前210年、4回目の巡察に出た始皇帝は、途上で病に倒れ、後継者を長男の扶蘇と定め、後事を側近の宦官趙高と、宰相の李斯に委ねて亡くなりました。
その遺言は、権力を欲する趙高に握りつぶされ、そそのかされた李斯とともに扶蘇を自殺に追い込み、末子の胡亥が二世皇帝に即位します。やがて圧政に苦しむ人々が各地で蜂起、趙高はこれに対応せず、胡亥も宮中の奥で実情を知らずにいたため、劉邦と項羽の侵攻により始皇帝の作り上げた統一国家は短命のうちに崩壊しました。
始皇帝の強権的な政治は後々批判され、その名にはイメージの悪さがつきまといます。
一方で、漢の高祖劉邦は天下を得ると、皇帝を名乗り、漢も秦に倣って中央集権国家としました。以後歴代王朝はこれを踏襲していくことになったわけです。始皇帝の作ったシステムは広大な土地と膨大な人民を支配する体制として優れていたからでしょう。

※1:形式的には残っていた小国の「衛」が滅んだのは二世皇帝胡亥の時だが、実質は秦の統一国家だった。
※2:史記は歴史書であると同時に物語的要素も強く、漢臣である司馬遷の立場上秦の始皇帝を貶める意味もあったと思われる。
※3:三国時代の蜀の政治家、呂凱は、益州永昌郡「不韋県」の出身で流刑になった呂不韋一族の子孫と言われる。
※4:呂不韋は自分の抱える豊富な食客を動員し、諸子百家から自然科学までを網羅した「呂氏春秋」という書物を編纂した。これを公開し、一字一句でも追加修正できたら千金与えると布告したことから、一字千金の熟語が生まれた。
※5:焚書は、人々に必要な農学、医学、占いの書籍を除く、各国の歴史書、諸子百家の書の所有を禁じる法(挟書律)を制定し、該当書籍は提出し焼却処分にするよう命じたもの。法令に関しては秦の役人が直接指導することにしていた。儒教の経典「六経」のうち現在に伝わっていない「楽経」はこの時失われたと言われるが、存在を含め異説も多い。
※6:廬生は、真人は他の人がいると現れないと説明し、真に受けた始皇帝が宮中の奥に潜んで人目を避けたにも関わらず真人は出てこなかった。「人ではない」宦官の趙高を重用したのもこのためだと言う説もある。
※7:坑儒は儒者を穴埋めにするという意味で、刑罰を多用する法家主義的政策を批判した立派な儒者を皆殺しにしたかのように言われているが、実際には、方士廬生が起こした事件の審問で、他者を告訴して責任逃れをしようとした者が相次ぎ、告訴された無関係の学者が多数巻き添えで殺された、という説もある。儒学を標的にした思想弾圧ではなく事件後も始皇帝の側近として仕えた儒者もいる。

☆この内容、および、より詳細なデータは総合年表HP(http://www.sogonenpyo.jpn.org/)に追加されます。
ラベル:年表 世界史
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2014年01月03日

悪人列伝−近代文明を否定した男、ポル・ポト

第二次世界大戦後は、世界規模の多国間戦争がなくなる一方で、植民地時代が終わりを告げて、地域独立の時代となりました。しかし独立を達成しても、政治経験が乏しく、経済基盤が弱く、教育水準が低い中、自然とカリスマ性の高い人物や軍事力を持つ人物に権力が集中していきます。そして大小様々な独裁者が生まれました。その多くは、強力な政治体制のもとで近代化を推し進め、開発独裁と呼ばれました。しかし、全く逆のことをした人物がいます。
近代文明を否定した男。カンボジアの共産主義独裁者ポル・ポトです。
人口がそこそこあったとはいえ、決し大国ではなかった東南アジアの一国で100万人以上の市民を死に追いやり、クメール文明を崩壊させた人物です。多くの犠牲者もさることながら、その「原始共産主義」という異様な政策で歴史に名を残しました。
ポル・ポトは本名サロット・サル。
現コンポントム州の自作農の家に生まれます。当時カンボジアは農業国で輸出もしており、自作農は比較的裕福でした。王族とも交流する家柄だったといいます。
伝統に従い寺院で修行した後、カトリック系学校や高校で教育を受け、1949年、パリに留学します。そこで彼は共産主義運動に参加しました。
フランス共産党の中にあったクメール語の一派に加わり、のちの政権下で要職についた人々と出会っています。「クメール・ルージュ(赤いクメール)」の原点でした。彼ら若者たちは実際の政治としての共産主義というより思想的に論じ合うグループとして存在し、ポル・ポトはその中で目立たない存在だったといいます。試験に落ち、奨学金を打ち切られて帰国したポル・ポトは、教師となり、左翼運動を始めます。
クメール・イサラク連合に加わり、独立闘争を始めますが、エリート共産主義者に対するコンプレックスがあったようです。彼は何事も自身で決めるようになります。
この頃、ベトナムでのフランス植民地に対する抵抗が強まり、やがて独立戦争へ発展していきます。1954年、フランスが撤退すると、ベトナムは南北に分裂。インドシナ半島各地の共産主義者がベトミン(越盟・ベトナム独立同盟)に関わって北ベトナムへ向かったため、カンボジアのクメール人民革命党は指導体制が混乱し、ポル・ポト派はそこに入り込みます。
政治体制の変化が、ポル・ポトの権力への道を拓いていきます。
1949年に独立したカンボジアは、国王シハヌークのもとで左翼運動を弾圧し、権力基盤を固めようとしました。しかし、ベトナム内戦は、アメリカの介入を招いて、ベトナム戦争へと拡大すると、アメリカの支持を受けるロン・ノル将軍らの右派勢力が台頭していきます。1963年2月に起こったシェムリアップ暴動で、シハヌークは左翼反政府勢力の取り締まりに乗り出しますが、右派も警戒し、左派の徹底弾圧は出来ず、妥協を図らざるを得なくなります。この弾圧で都市部の共産主義者は地方に逃れ、農村地帯を活動の拠点にします。ポル・ポトも森林地帯に身を潜めました。
1970年、シハヌークががん治療のために中国へ向かった留守に、ロン・ノルはクーデターを起こして議会に国王退位を認めさせ、権力の座に付きました。これは泥沼化するベトナム戦争で、東南アジア全体が共産化することを懸念したアメリカの介入もありました。アメリカ軍は連日、カンボジアの農村地帯も空爆し、この結果、カンボジアでは数十万の犠牲者と田園地帯の荒廃を招きました。それまで豊かだった自作農民らは都市へと流れ、プノンペンは100万人を超える国内難民で溢れかえります。人々の不満はアメリカと、アメリカの支持を受けるロン・ノル政権に向きました。ただ、ロン・ノル政権は、クメール人以外にも、チャム人やモンタニャールなどの少数民族の権利を認めたため、その強い支持を受けていました。
一方、農村地帯で活動していた、ポル・ポト率いるクメール・ルージュは農民の支持を得て攻勢をかけます。
アメリカはロン・ノル政権を支持していましたが、ベトナム戦争の敗北、そして中共との国交樹立によって、彼らを見捨てました。地位を追われていたシハヌークやクメール・ルージュが中共と関係が深かったからです。シハヌークはこれを機にロン・ノル政権に対抗するため、ポル・ポトに接近します。本来両者は水と油でしたが、利点があると見て手を組んだわけです。もっともポル・ポトの方が一枚も二枚も上手でした。実行する気のない約束をいくつも交わしてシハヌークとその勢力を引き入れます。
1975年4月1日、クメール・ルージュは、プノンペンへの攻勢を開始。17日、プノンペンは陥落し、ロン・ノルはアメリカへ亡命しますが、政権幹部は脱出できず、のちにことごとく処刑されました。
当初、市民はクメール・ルージュを歓迎しました。
プノンペンを制圧したクメール・ルージュは、シハヌークを形だけ祭り上げて民主カンプチア政府を樹立。すぐに米軍の爆撃があるから避難するよう市民に命じ、短期間でプノンペン市はほとんど無人となります。
ところが、数日で戻れると思っていた市民は予想外の状況に置かれます。
政権は知識層の市民を優遇すると称して呼び出し、彼らを何処かへ連れ去ると、一人も帰ってきませんでした。メガネをかけている、といっただけでも連行されて殺害されました。僧侶も弾圧され、仏教経典は焼かれ、寺院は破壊されました。そして多くの市民を農村地帯へ送り、農作業に従事させます。
ポル・ポトが目指したのは、非常に単純で完全な均等配分による原始共産制。毛沢東主義を取り入れ余計なものを排除したものでした。
そのために、通貨は廃止され、私有財産は没収され、家族制度すら解体され、子供は親から引き離されて集団生活に入れられ洗脳。大人たちも集団で管理され、婚姻までも決められ、大規模な土木工事も機械を使わず彼らを動員して手作業で行われました。
その中には従来からのポル・ポト派の構成員が密告者として入り込み、少しでも問題ありとされれば、強制収容所へ送られ処刑されました。
無計画で非科学的で非効率な農業生産体制は破綻し、都市も農村も一層荒廃。飢餓が広がり、大量処刑も加わり大人の数が激減。国民の大半が14歳以下となり、軍隊まで子供が動かす事態になります。洗脳された子供は、親を含む大人たちを憎悪しリンチや殺害も多く行われたといいます。
ポル・ポト自身はしばしば外遊もしていますが、民主カンプチアの内情は世界には伝わらず、ユーゴスラビアなど一部の関係者が訪問出来てわずかに実情に触れるだけでした。
犠牲者の総数は、元々の統計が乏しいために不明ですが、100万人から200万人の間というのが多くの見方です。
ポル・ポト政権以前から、ベトナムとは国境地帯に両民族が入り混じり、利害が絡んで対立することが多かったわけですが、ポル・ポトは反ベトナムを強く主張し、国交は断絶。ベトナム領内を攻撃し、住民虐殺まで行いました。ベトナム側でも、ポル・ポト政権への反乱工作を進めます。
ポル・ポト自身の疑心暗鬼も高まったのか、1978年5月、自国東部地区の軍と住民がベトナムと通じて反乱を企図したとして総攻撃。政権を支えているはずの将兵まで大量に殺害します。有力幹部も含む多くの人がベトナムへ逃れ、これを機に、ベトナム政府はカンボジア侵攻を計画。亡命したヘン・サムリンを代表にカンプチア救国民族統一戦線を作らせ、その支援という形で、1978年12月25日、越境してカンボジアに侵攻しました。
中国の支援を受けていたものの、人材を失い、多くが子どもというカンボジア軍はあっけなく壊滅。プノンペンは陥落し、1979年1月7日、ヘン・サムリン政権が樹立しました。ベトナム軍が見たのは、至る所にある収容所と、膨大な白骨、そして腐敗している大量の人間の死体でした。
ソ連に近いベトナム軍の侵攻に親ポル・ポト派の中国はもちろん、反共のアメリカまでがポル・ポト政権を支持・支援しました。これはソ連、中共、アメリカという三者の微妙な関係も背景にありました。
2月17日には、中共軍がベトナムへ侵攻。中越戦争が勃発します。中共軍は60万に達する兵力、対するベトナム軍守備隊は3万の民兵でしたが、ベトナム戦争での実戦経験が豊富で、ソ連、中国、アメリカの鹵獲兵器まであり、更に文化大革命後の混乱もあって、中共軍はベトナム北部の占領に成功するも大損害を出し撤兵に追い込まれました。
一方、ポル・ポトらはタイ近くのジャングルに潜み、タイにルビーなどの資源を売って資金を稼ぎ、中国などから武器を購入してはゲリラ攻勢をかけますが、政権奪回はもはや不可能でした。ベトナムによる支配はタイにまで影響及ぼし、軍事衝突まで起こっています。
シハヌークは再びポル・ポトと手を結び、右派のソン・サン派と反ベトナム三者連合を結成。しかし三者は利害を巡って対立を繰り返し、結局、ドイモイ政策でより自由化したベトナムが1989年に撤退。1991年7月、反ベトナム三派とヘン・サムリン政権は合意にいたり、カンボジア最高国民評議会が成立。同年10月パリ和平協定でカンボジア内戦は終結。1993年、国連主導のもと国民議会総選挙が行われ、立憲君主制カンボジア王国が成立しました。シハヌークが元首に返り咲く一方、ポル・ポト派は選挙に参加せず、襲撃するなど妨害。日本人警察官やボランティアを含む多数ののUNTAC要員が殺傷されました。ポル・ポト派は孤立。和平に動いた元国防担当のソン・センがポル・ポトに粛清され一族もろとも殺害されると、そのポル・ポトもまもなくタ・モク派のクーデターで軟禁され、1998年4月15日、ジャングルの奥地で死亡しました。毒殺だったとも言われています。

共産主義体制では、しばしば知識層が弾圧を受けました。
しかしこれは必ずしも指導者が教育を受けられなかった低所得者層の出身だったからではありません。
むしろ指導者には留学経験があったり、高等教育を受けているものも多くいます。むしろその中で共産主義に関わるようになっています。
共産主義組織の指導者層は、「無知な」労働者や農民を指導する、という立場にこだわり、知識のある人物を警戒しました。自分より優れていたり、自分の知らない知識を持つものに、指導方針に異を唱えられ、それが自分たちより優れていれば、自らの組織も、権力も、何より自分自身の立ってきた思想的背景までが崩れることを恐れたのかもしれません。支配し導いていく人民は自分たちの指導を素直に受け入れる無知無能な人間でなければならないわけです。
だから、対立する思想的立場の者は言うまでもなく、一般市民の知識層、果ては同志だった者まで排除しなければならなくなります。
しかし知識のある市民こそ、社会を発展させる要素です。知識層を排除すれば、ただ命令を待つだけの何も出来ない人物ばかりになり、異論はおろか進歩的意見すら出ない社会になります。そうなれば自滅の坂道を転がり落ちるしかありません。結局は、指導者の個人的恐怖感が、国家や社会を破壊してしまうわけです。
ポル・ポトは多くの同様の例の代表的一人だったといえるでしょう。

☆この内容、および、より詳細なデータは総合年表HP(http://www.sogonenpyo.jpn.org/)に追加されます。
ラベル:世界史 独裁者
posted by あお at 16:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 悪人列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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