2013年09月21日

悪人列伝−独裁者アドルフ・ヒトラー

アドルフ・ヒトラー
歴史上、悪人と呼ばれたものの多くは、敵対者や後世からの悪評という「作られた」面もあります。しかし時代的に近い人物においては、その行動が直接的に、悪に結び付けられることもあります。ヒトラーは、まだ歴史上というには、生々しさの残る人物といえます。

ヒトラーは、ヨーロッパ、特にドイツでは、公的にはタブーな存在となっており、極力触れないようにしています。ヒトラーの自著は発禁。ハーケンクロイツすら公的に使用すると処罰されます(※1)。
一方で、その影響が乏しい、アメリカや日本では、ヒトラーはしばしば題材、ネタ、象徴的なものとして扱われています。ヒトラーも見たという同時代のチャップリンの『独裁者』などは別格としても、小説やマンガで、第二次世界大戦でドイツが勝利したら、逆に、ヒトラーがアメリカへ移住していたら(たいてい画家や小説家になっている)、といった歴史改変ものや、ヒトラーの「クローン」ネタ、ヒトラー的な外見を独裁者の象徴として見立てるといった手法がしばしば見られます(最近アメリカの道路沿いのやかんの看板が似ているとして騒ぎになりました)。
最近はドイツでも、ヒトラーが現代にタイムスリップして「コメディアン」として人気ものになる社会風刺小説『Er ist wieder da』がベストセラーになっています。
一方で、国粋主義、その実行力とカリスマ性からヒトラーを崇拝する動きもあり、また反ユダヤ主義の象徴として、アラブ諸国を中心にヒトラー評価は根強くあります。

ヒトラーを極悪非道な独裁者として断定するのは簡単ですが、生まれ落ちた瞬間からそうだったわけではありません。なぜ一人の画家志望だった若者が、狂気の独裁者になったのか、その精神面への影響と変化、それを支持した市民の行動、時代背景や思想的流行などもふまえて、未来の歴史を考える時に、研究課題とするべきでしょう。

主な経歴
1889年4月20日、オーストリアのブラウナウで、税関吏アロイス・ヒトラーと妻クララの間に生まれます(※2)。
息子に将来を期待した父親との確執が大きく、父に対する反発が、大ドイツ主義への傾倒につながったという説もあります。1903年、父アロイスが病没し、その後、学校も2度中退。1907年、芸術家を志してウィーン美術アカデミーを受験するも失敗。課題の未提出が理由でしたが、この頃のウィーンは「世紀末芸術」と称される、退廃、エロチシズム、グロテスクなどが評価され、個性の乏しいヒトラーの作品は評価が低かったとされます(※3)。ヒトラーは建築物にも興味を示しますが、学歴の問題から建築家への道を断念してます(※4)。この年には母も病死。絵葉書売りで収入を得ながら、図書館に通って独学で知識を得てますが、学歴の悪さは終生コンプレックスだったようです。
第一次世界大戦が勃発すると、彼はバイエルン王国の志願兵として出兵。伝令兵として二度勲章を得ますが出世はせず、ソンムの戦いで負傷。更に化学兵器マスタードガスの影響で一時失明し終戦を迎えました。視力は回復するも、敗戦の衝撃は大きく、「内なる敵」への不満を持つようになります。1919年9月12日、ドイツ労働者党(党首はドレスクラー)に加盟。党内で影響力を伸ばし、党名をドイツ国家社会主義労働者党に変更(※5)。ムッソリーニのファシスト党に憧れ、ローマ進軍を真似て1923年11月8日ミュンヘン一揆を起こすも失敗。しかし法廷で自らの主張を展開して多くの支持者を獲得しました。刑務所での待遇は良く、『我が闘争』を執筆。1924年12月20日には釈放されます。1926年2月14日、党内左派勢力をバンベルク幹部会議で抑えこみ、ヒトラー体制が確立しました。
1928年5月20日の国会議員選挙に候補者を出すも、景気の好転が影響して12人の当選にとどまります。ヒトラーがエヴァ・ブラウンと知り合ったのはこの頃。
翌1929年、世界恐慌により政府への批判がナチスへの支持拡大に。1930年の選挙では第二党に躍進しました。
1931年9月18日、結婚も考えるほど溺愛していた姪のゲリ・ラウバル(異母姉アンゲラの娘)が自殺。彼女の行動を抑制していたヒトラーとの対立も原因と見られ、そのショックは大きかったといいます。翌年大統領選に出馬。英雄ヒンデンブルグ大統領に迫る勢いを見せたヒトラーは、知名度を飛躍させます。
7月の総選挙でナチスは第一党に躍進。反共保守派の危機感に乗り、ヒンデンブルグや、パーペン前首相の支持も得て1933年1月30日にヒトラー内閣が発足しました。2月1日に議会を解散。2月27日夜に起こった国会議事堂放火事件を機に共産主義者の弾圧を開始。3月5日の総選挙では、単独過半数にはならなかったものの、3月24日には国家人民党と中央党の協力を得て全権委任法を可決させ、議会と大統領の権力を奪います。7月14日にはナチ党以外の政党を禁止しました。
1934年6月30日の「長いナイフの夜」事件で最大軍事組織「突撃隊」のレーム派を一掃。同年8月2日、ヒンデンブルク大統領が死去。ヒトラーは総統として最高指導者となりました。彼は貴族階級より、庶民側に立つ姿勢を見せ、私生活は質素、社会事業を積極的に進め、失業率を大幅に下げ、市民の支持を得られる政策を進めましたが、一方ではユダヤ市民への迫害・追放を強めます。
1935年3月16日、ドイツ再軍備宣言。1936年3月7日には非武装地帯ラインラントへの進駐という賭けに出ました。国際社会の批判が乏しかったことに自信を得たヒトラーは、以後、拡張政策を推進することになります。1936年8月1日から8月16日までベルリン・オリンピックを開催。今も続く聖火リレーのイベントを行い、国威発揚に成功。同大会の映画を撮ったレニ・リーフェンシュタール、党大会で「光の列柱」の演出をした建築家アルベルト・シュペーア、メディアを使った宣伝を駆使したヨーゼフ・ゲッベルスなど、以後の独裁者の見本となるような政治的演出のできる優れた人材を集めます。芸術家を目指して挫折したヒトラーならではの目の付け方でした。
1938年1月26日に国防相ブロンベルク元帥を、1月28日に陸軍総司令官フリッチュ上級大将を、ともにスキャンダルを理由に罷免し、独立志向のあった軍も完全掌握。
同年3月13日、故郷オーストリアを合併。9月29日、イギリス首相チェンバレン、フランス首相ダラディエ、イタリア首相ムッソリーニとミュンヘン会談をおこない、チェコスロバキアのズデーテン地方の割譲に成功。さらに同国のハーハ大統領と1939年3月15日に会談してチェコを「ベーメン・メーレン保護領」として吸収、分離したスロバキア共和国を傀儡国家として事実上併合します。3月23日にはリトアニア政府からメーメル地方を割譲。英仏は動かないとにらみ、次の目標をポーランド併合と定めたヒトラーは、敵国ソ連と交渉して、8月23日に独ソ不可侵条約を結び(※6)、9月1日にポーランドに侵攻。しかし英仏はついにナチスとの対決を決定して、第二次世界大戦が勃発しました。
航空機と戦車を使った電撃戦により1ヶ月半でポーランドは滅亡。1940年4月9日には、デンマーク、ノルウェーへ侵攻。2ヶ月で両国を占領。5月10日、フランスへの侵攻作戦を開始。第一次大戦で塹壕戦を経験したヒトラーは、侵攻作戦を大きく変えて、主要侵攻ルートのベルギーではなく、アルデンヌの森林地帯を戦車中心の機甲師団で突破する戦術を取り、フランス北部を一気に制圧しました。6月21日、フランスが降伏。フランスは北部の占領地域と、南部のペタン政権に分割されます。その後、イギリス本土侵攻作戦は、航空機の損害の大きさから中止に。それでも、1940年10月28日から翌1941年5月29日にかけてバルカン半島を制圧し、9月27日には日独伊三国同盟も締結。日本人に対しては、蔑視、おそれ、称賛と複雑な感情を持っていたようです。
そして、彼の栄光が失われる独ソ戦が始まります。
1941年6月22日、バルバロッサ作戦によりドイツ軍はソ連に侵攻。当初、スターリンの粛清で弱体化していたソ連に対し、快進撃を続けたことで楽観視していたヒトラーですが、激しい抵抗と焦土戦術、強力なT-34戦車、泥濘と悪路に阻まれ、モスクワ目前で冬の到来とともに補給もままならなくなり、各地で大きな損害を出します。
翌1942年、ドイツ軍はレニングラードを包囲したまま、南方資源地帯カフカース方面進出のブラウ作戦を発動、6月28日からはその途上のスターリングラード攻略に乗り出しますが、これも予想以上の長期化。
ソ連側のゲリラ的な抵抗、現地司令官とヒトラーとの意見対立などで進まず、再び冬が到来。ソ連軍はドイツ軍を包囲。1943年1月31日、現地軍司令部は降伏し、参加将兵のほとんどが死亡しました。1944年1月にはレニングラードからも撤退。ドイツ軍は兵力を大幅に失い、以後、縮小に転じます。
うまく行かなくなると、陰に籠るのが独裁政権の特徴。ドイツ国内の統制は強まり、ユダヤ人収容所も絶滅収容所へと変わり、ヒトラーに失望した高級将校による暗殺計画が相次ぎ、学生の反戦運動も始まります。作戦に参加したイタリア軍の損失も大きく、ムッソリーニ政権の基盤も揺らぎました。
1944年7月20日のシュタウフェンベルク大佐によるヒトラー暗殺未遂事件は、会議中の爆弾の炸裂により列席者が死傷したものの、ヒトラーは軽症で済み、奇跡のように宣伝されました。7000人以上も摘発され、200人以上が処刑されましたが、ヒトラーもまた、人間不信がひどくなったといいます。
1943年7月25日には、ムッソリーニの失脚とバドリオ政権の連合国への寝返り、1944年以降の連合軍進出によってドイツは孤立を深めていきます。
1945年1月には、ナチスはライン川とオーデル川に挟まれたドイツ本土と周辺部だけを支配するまでに縮小していました。3月15日のブダペスト奪還作戦失敗で、ドイツ軍の組織的作戦は終わります。
ヒトラーはもはやドイツに未来はないとみなし、3月19日、国内焦土作戦を命令。ついに自らの国民までも見捨てようとしました。シュペーアらの反対で実行されしませんでしたが、ヒトラーはすでに病状も悪化し、歩行もままならず、指導者としての意欲も失われていたようです。
4月23日、降伏交渉を検討していたゲーリング国家元帥の逮捕命令、4月28日の親衛隊指導者ヒムラーの連合国との和平交渉の情報など、政権も崩壊寸前となり、ヒトラーは29日、大統領職にカール・デーニッツ、首相にヨーゼフ・ゲッベルス、外相にザイス=インクヴァルト、ナチ党担当にマルティン・ボルマンを指名し、日陰の存在だった愛人エヴァ・ブラウンと結婚式を挙げ、30日、官邸地下壕でエヴァとともに自殺し、遺体は焼却されました。

ヒトラーの思想・行動は、父や一族との不和、母の死、芸術家になれなかったこと、憧れたドイツ帝国の敗北、といった彼にとっての失望・挫折を、当時ヨーロッパに根強く広がっていた反ユダヤ主義などと結びつけて転嫁し、さらに得意な弁舌や政治構想力に代えて解消しようと図った結果かもしれません。ヒトラーもまた、生き方に悩んだ一人の弱い人間だったのでしょうが、その結果、多くの人が犠牲になったわけです。どこかの段階で彼を導く人がいれば、あるいは、彼がもっと別の生き方や得意分野に気づけば、彼自身の歴史は変わったかもしれません。が、結局は、似たような別の独裁者が誕生し、同じことを繰り返したでしょう。当時、似たような思想の政治家は他にも大勢おり、なにより「ヒトラー」と「ナチス」に力を与えたのは、この時代の市民だったわけですから。

※1:卍(まんじ):日本や台湾などでは寺院を表す記号でもあるまんじ。ヒンズー教でも使われています(スワスチカ)。向きが逆のハーケンクロイツと誤解したヨーロッパ人の批判を受けて、日本でも表示をやめようという論議もたまに出ますが、卍と起源が同じハーケンクロイツ自体は、古くからアジア・ヨーロッパに伝わるシンボルや文様の一つで、幸運を意味し、ナチズムとは本来関係ありません。
※2:ヒトラーにはユダヤ人説もあります。ヒトラーの父親アロイスの父親が不明であることも要因のひとつ。
※3:ヒトラーの絵画作品は今でも時々オークションに掛けられることがあります。ディズニーのキャラクターを描いたものもあるとか。
※4:のちに独裁者となった彼は、退廃芸術展を開いて、これらの作品を「頭がおかしい人間の作品」などと公開で誹謗しました。一方でベルリンに古典主義的な巨大建築物を並べた「世界の首都ゲルマニア計画」の建設にも意欲を示しています。
※5:ナチスは、もともと、ドイツ国家社会主義労働者党に対する蔑称。
※6:ドイツと「防共協定」を結んでいた日本は、ドイツとソ連との不可侵条約に驚愕し、密かに進めていた日独同盟の交渉を中止。平沼騏一郎首相は8月28日に「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」と声明を発表して総辞職しています。

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2012年12月11日

悪人列伝―敵役の定型:吉良上野介

赤穂浪士の討ち入りで殺されてしまう敵役、吉良上野介は名を義央(よしひさ、一般には「よしなか」)。
高家肝煎の当主です。
高家というのは、旗本の一種。旗本というのは、徳川将軍家の家臣で、領地は1万石未満だが、将軍の出席する席に参列できる資格を持つ「お目見え以上」の上級家格の家を指します。大名ではありませんが、当主は「お殿様」ですので、時代小説などでも「殿」とよく呼ばれてます。その旗本の中で、幕府の重要な公式行事の儀式などの典礼に関わる職を高家職といい、その職につける家を高家旗本と言います。
高家の家柄は、江戸幕藩体制下での大名としての実力は持たないが、権威のある家柄とされたもので、公家、清和源氏各流、足利将軍家、織田家、今川家、上杉家、武田家、大友家などの旧大名の一族などがなっています。
石高は500石から5000石くらいの間で、1000〜2000石に集中していて、大名よりかなり下ですが、位は高く、通常でも大名並みの従五位下、中には令外官としての征夷大将軍と並ぶ従四位、正四位のものもいます。
高家職についた高家を奥高家、就いていない高家を表高家といいます。奥高家の中でも特に作法などに詳しいものを高家肝煎としました。
吉良家は、幕府の当初から高家職にあった、清和源氏足利流であり、駿河今川氏と縁戚関係にありました。徳川秀忠に臣従して三河吉良に領地を得て、その領主となります。清和源氏を称した徳川家康に自家の系図を提供したとも言われています。
吉良義央は吉良家の嫡子。上野介の官職を得ています。上野国は形式上の国守は親王となるため、中世以降は、守ではなく介が実質上の最高官となります。のち従四位上左近衛権少将。
保科正之(徳川家光の異母弟)の斡旋で、米沢藩主上杉綱勝の妹三姫を妻に迎えます。綱勝が無嗣により上杉家断絶の危機に陥った際、義央の子三之助(のちの上杉綱憲)が養子に入って上杉家は減封で存続しました。逆に上杉綱憲の次男(のちの吉良義周)が吉良家のあとを継ぐことになります。
この関係で、上杉家とは非常に深い関係にありました。

元禄14年2月4日(1701年3月13日)、東山天皇からの勅使に対する饗応の準備が幕府より命ぜられます。
饗応馳走役は播磨赤穂藩主浅野長矩と伊予吉田藩主伊達村豊で、高家肝煎の吉良義央が指導に当たりました。
この饗応の手続で何か変更か手違いがあったらしく、現場はその対応に追われることになります。
3月14日(1701年4月21日)午前10時過ぎ、城内松之大廊下で、浅野長矩は抜刀の上、吉良義央に斬りかかりました。吉良は背中と額を斬られますが、ちょうど吉良と相談のために現場にいた大奥御台所付の旗本梶川頼照(※1)が慌てて浅野に組み付いて床に倒し、伊達村豊とともに押さえ付けました。吉良義央は品川伊氏と畠山義寧によって助けられます。
この梶川の日記が、当時を伝える史料として物語などにも影響を与えています。
ドラマでも定番の浅野の「この間の遺恨、覚えているか!」というのもこの日記に記されていました。
浅野は即日田村建顕の屋敷で切腹。
しかし吉良義央にお咎めはありませんでした。これは、殿中での抜刀がご法度であり、吉良が抜かなかったことが評価されたためで、当時の法慣習としては当然の結論と見られます。朝廷に対する面目が潰れて、母桂昌院の叙任が取り消されるのを恐れた将軍徳川綱吉が激怒して命じた、という説もあります。
赤穂藩はお取り潰し。事情としてはこの判断も無理からぬところですが、もし浅野長矩を「乱心した」と定めた場合、切腹させず配流に処して、藩は改易の上、新たに親族を立てて再興させるといった方法もありました。
そのためか、直後から、これが公平ではない、事件の背景を調べていない、という意見が各世相に広まったらしく、幕府は8月19日(1701年9月21日)になって、吉良義央に旗本松平信望が本所に持っていた屋敷への屋敷替えを命じています。本所という江戸の辺地の小さな屋敷へ移されたことで、浅野遺臣が襲うことを想定したようにも取られていますが真相は不明。8月21日(1701年9月23日)には、実弟の東条冬重、吉良よりの高家大友義孝、浅野長矩を室内ではなく庭で切腹させた大目付庄田安利も役職を取り上げられ、吉良義央は高家肝煎職を返上し、12月12日(1702年1月9日)、隠居することになりました。

赤穂城は事件直後の4月19日(1701年5月26日)に開城され、浅野家臣は散り散りになりました。その中でお家再興派と吉良殺害を図る強硬派が残ります。両者は徐々に対立を深めて行きました。
翌元禄15年7月18日(1702年8月11日)、浅野家再興の最後の可能性であった内匠頭弟浅野大学長広が広島の浅野本家に預けられることになり、再興の望みは消えました(※2)。再興派だった家老大石良雄(※3)は吉良邸討入を決断し、強硬派と一致します。
同年12月15日(1703年1月31日)未明、赤穂浪士四十七士は本所吉良邸を襲撃。邸内での死闘の末、吉良義央は殺害されました。遺体は浪士によって寝所に移され、落とされたその首は、泉岳寺にある浅野長矩の墓前に供えられたのち、寺に預けられて、寺から吉良家へ返され、菩提寺である万昌寺に葬られました。養子の吉良義周は薙刀で果敢に応戦して重症を負い、一命は取り留めます。
元禄16年2月4日(1703年3月20日)四十七士のうち、姿を消した足軽寺坂信行以外の46人は預けられた四大名邸で切腹し、その子らも流罪の処分を受けました。一方の吉良家も正式に改易され、吉良義周は信濃諏訪藩高島へ配流となりました。
この事件は世間で大評判となります。すぐに各所で創作活動が始まり、やがて人形浄瑠璃の作品として生まれ、歌舞伎へと発展したのが、直接描くと御政道批判ともなりかねないので時代を南北朝に移した「仮名手本忠臣蔵」です。江戸庶民の代表的娯楽となりました。
明治に入ると、忠君愛国の美名のもとにさらに国家的作品となり、小説・映画・ドラマのネタに尽きません。
その中で、吉良義央は常に悪役、敵役でした。その人気は非常に悪く、墓への嫌がらせもあったとか。

殿中刃傷事件は原因が諸説あって定説はないものの、吉良義央の浅野長矩への嫌がらせが原因というのが一般的。賄賂を要求して応じなかったため、接待の手ほどきをしなかった、といったものがあります。ただ勅使饗応の責任は重く、そう軽々しくいい加減な対応はしなかったでしょうし、賄賂は現代的感覚であって、当時は指導するものに対するお礼というのは当然のしきたりであり、必要経費をそれでまかなっている面もありました。また、浅野長矩は、その前にも勅使饗応役を務め上げており、ドラマに出てくるように初めてでよくわからない、ということはなかったはずです。
浅野以外の大名に対しても意地悪をした、という話がありますが、多くは事件後に書かれているため、直接事件を描けないために仮託したか、事件の評判を受けて創作した可能性も否定できません。ただ、名門の出で、有職故実に詳しく、儀礼を指導する吉良義央が、教えを請う大名を見下して、そういう事態に発展した可能性もあるでしょう。
現在では浅野長矩の統合失調症説もあり、怨恨説を採らないものも見られます。
なお、吉良義央は、幕府の代理人として頻繁に朝廷と交渉したため、天皇からも嫌われていたそうです。
殿中で斬りつけるのですから、何かしらの深い理由があったのは間違いありませんが、史料的にはもはやわかりません。
制度やマナー、建前などでがんじがらめの武家階級における、「どうしようもならなくなった」状況が、この事件の背景にあったのではないでしょうか。

なお、領地である三河吉良では、吉良義央は名君として慕われています。黄金堤の建設など、地元に恩恵をもたらしたことや、厳しい批判の目に晒された同情もあるでしょう。なにしろ、浅野長矩を取り押さえた梶川頼照や、敵討ちに加わらなかったというだけで赤穂旧臣すら非難されているのですから、吉良は言うまでもありません。

吉良義央は、浅野長矩を殺したわけではなく、襲われた方であり、浅野長矩の切腹も幕府の裁定。刃傷事件の背景も不明で、客観的に見れば、吉良義央が仇として狙われるのはおかしな話でもあります。幕府の裁定はまともなもので、吉良側からすれば恨みを買う筋合いではないということになります。赤穂浪士の行動には「主君の遺恨を晴らす」という彼らなりの名分もたちますが、吉良義央の場合、事件の直後から、人々の感情、芝居や小説、世の倫理観などで、悪役に仕立てられた要素が大きいといえます。

※1:梶川頼照は、貞享元年8月28日(1684年10月7日)に江戸城内で起こった、若年寄稲葉正休による大老堀田正俊暗殺事件にも遭遇している。赤穂浪士の事件後、浅野を取り押さえた行動が認められて加増されたために、世間から散々悪く言われたという。
※2:浅野長広は後に800石の旗本となってお家を再興している。
※3:大石良雄は大石内蔵助で有名。『仮名手本忠臣蔵』では大星由良助義金。家老時代は仕事をろくにしなかったため「昼行灯」と呼ばれたとか。藩改易後も、芸者遊びをしていたというが、これは幕府を欺くため、という説は人気があります。実は吉良義央とは遠い親戚でもある(昼行灯は、昼間に行灯を点けても意味が無いので、役に立たない人のこと)。


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ラベル:歴史 年表 日本史
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2012年11月17日

悪人列伝−忠義の人だった「悪役」石田三成

悪人、と言うよりは、悪役な立場に置かれたのが、石田三成でしょう。
彼は、近江の土豪石田氏の出身と言われる人物。
織田政権下でのし上がった羽柴秀吉が、近江長浜城主となった頃に仕えたと言われています。
真偽定かならないものの有名な逸話に、鷹狩に出た秀吉があるお寺に寄ったところ、寺小姓だった三成が出てきて、はじめは多めの水を、次にやや少なめにぬるいお茶を、最後に少ない熱いお茶を出し、喉の渇きを潤したため、その気遣いに感心した秀吉が彼を臣下に加えたというものがあります。創作としても、三成の性格の細やかさ、あるいは要領の良さをイメージしたのでしょう。

信長横死後、天下に乗り出した秀吉のもとで彼も出世していきます。
当初は、賤ヶ岳での武功など、武将として知名度を上げていきますが、むしろ彼の活躍は、政治面。
長期にわたって全国の検知奉行を務めた他、堺の接収、博多の復興など、政権の財政面を支える改革を行いました。後述する各種事件を担当し、朝鮮出兵の方針にも関わって、明との折衝も行なっています。関ヶ原で西軍の総指揮官となって敗北、処刑されました。

秀吉政権は、武力統一から、徳川幕府のような完成された官僚体制に向かう中途の状態であったため、政権樹立の功多き大名と武将上がりの行政官との対立が起きやすく、また行政面でも多分に個人に依存しているようなところがありました。秀吉自身はもちろん、事実上の首相であった羽柴秀長、石田三成ら五奉行などです。
そのため、三成は、あらゆる問題に奉行として当たらなければなりませんでした。当然、責任者としての立場が不平や不満の矛先になり易かったことでしょう。

石田三成には、以下のような、彼が仕組んだこと、というレッテルを貼られたものが多数あります。
・忍城水攻め
天正18年6月5日〜7月17日(1590年7月6日〜8月16日)、小田原の役の際の攻防戦。忍城は兵少数だったが唯一攻略に失敗しました。三成が水攻めのために石田堤を築いたとされ、遺構が今も残っています。しかし水攻めに反対したのは三成だったという説も。
・千利休の切腹
切腹は天正19年2月28日(1591年4月21日)。三成が利休を秀吉に讒言したとも言われています。
・蒲生騒動
文禄4年2月7日(1595年3月17日)に蒲生氏郷が40歳で死に、側近だった蒲生郷安と譜代家臣の間で起こったお家騒動。会津蒲生家は宇都宮12万石に転封となり上杉家が会津に入りました。石田三成が蒲生家の弱体化を狙い氏郷を暗殺、親しい蒲生郷安を使ってお家騒動を起こさせ減封にし、やはり親しい直江兼続のいる上杉家を会津に移した、という説があります(騒動の張本人である郷安はほとんど罪に問われていません)。しかし以前から氏郷の病状悪化は広く知られており、郷安と対立した側にもお咎めがなく、減封で浪人となった蒲生家旧臣らを抱えたのも石田三成なので陰謀説には疑問も。また蒲生家臣同士の抗争は事実上の四代目に当たる松山藩主忠知の代に無嗣断絶するまで続きました。
・豊臣秀次の失脚と切腹
文禄4年7月15日(1595年8月20日)。三成は秀次を秀吉に讒言したという説があります。彼のもとに使者として訪れたのも三成。ただ、秀次の無実を訴えた、すべて処刑された妻子の助命を秀吉に訴えたという説もあります。
・明との一方的な講和と加藤清正の謹慎
秀吉の要求を明側が受け入れないため、石田三成と小西行長は沈惟敬と交渉し、日本側と明側の双方で偽りの報告を作って交渉を進展させようとしたが、実情を知る加藤清正が邪魔であったため、讒言して謹慎処分にしたという説があります。謹慎していた清正は、慶長伏見大地震(文禄5年閏7月13日(1596年9月5日))で秀吉を助け、許されました。明との交渉は失敗。
・キリシタン二十六聖人の弾圧
処刑は慶長元年12月19日(1597年2月5日)。京で活動中のフランシスコ会キリシタンの捕縛の指揮を取ったのが石田三成です。
・朝鮮からの撤退
秀吉の死を秘匿するため、撤退計画は三成ら五奉行の手で密かに進められたことから、現地の武将らには知らされませんでした。慶長3年10月15日(1598年11月13日)に撤退命令。

これらは、三成が関わっているとみられるものが多いものの、三成の陰謀や讒言という説もあれば、逆に反対したあるいは無関係というのもあります。実際には奉行として処置に当たっただけ、というところが正しいのかもしれません。真偽は不明ですが、後世、意図して三成が関わったとして広められたものです。

そして、三成が悪くみなされた最大の理由が、関ヶ原での徳川家康の敵対者だったことでしょう。
三成としては、豊臣政権を酸蝕していく徳川家康の存在は目障りだったに違いありません。幼い秀頼を守るのが自分の役目と思えば、最終的には家康との対決は避けられなかったでしょう。
豊臣家を滅ぼして天下を握った徳川家からすれば、豊臣家は当然貶めなければなりません。しかし、徳川家にとって厄介だったのは、百姓から天下人にまで上り詰めた豊臣秀吉が、庶民に絶大な人気があったこと。下手なことは言えません。そこで秀吉よりもその周囲にいたものが良くなかった、すなわち「君側の奸」を用意しなければなりません。その格好の餌食になったのが、淀殿と石田三成だったといえます。淀殿が三成を支持し、家康と講和を望んだ北政所(ねね)は三成を嫌っていたという話になっているのもそのためでしょう。しかし実際には北政所は三成と親しく交流していたと見られます(彼女の養女には三成の娘もいます)。

三成の性格も問題があったようです。毛利家の秀吉への贈り物を断った話や、朝鮮出兵のあと加藤清正や福島正則らから命を狙われるほど険悪になったこと、関が原の前哨戦の段階でも、増田長盛や大谷吉継から諫言されたり、島津義弘の進言を無視したり、という話が伝わるように、他人との交流で反感を買っている部分があります。清正とは、もともと親しかったが、武断と文治の違いで関係がこじれたとも、朝鮮出兵で三成の讒言によって謹慎を受けたからとも言われますが、清正と険悪だった小西行長との関係から悪化したという見方もあります。三成が慰労の茶会を開こうとして加藤・福島らに「戦の苦労を知らぬものが」と拒絶された、という話が伝わっています。
一方で、三成が私利私欲に走ったというわけではなく、また、三成と親しく付き合ったものもいます。大谷吉継、直江兼続、島清興(島左近)、津軽信建らのほか、春屋宗園、沢庵宗彭とも親しく(三成の遺体を埋葬し弔った)、関ヶ原で敵となった田中吉政や対立する逸話の多い浅野長政との関係も悪くはなかったという説もあります。

茶会の回し飲みで、らい病に罹っていた大谷吉継が口を付けた茶碗を諸将が嫌がった時、躊躇なくそれを手に取り茶を飲んだという話や、島左近を臣下に加えるため、知行の半分を与えて感動させた(※1)、という話は、創作の部分もあるでしょうが、悪く言われる三成らしからぬエピソードでもあります。

さらに言えば、徳川家康との関係も、立場としては敵対者であるものの、個人的にはさほど険悪だったとは思えない部分もあります。家康側の政略もあるでしょうが、三成をかばったり、関ヶ原のあとに三成の嫡男石田重家(※2)を出家したことで許したり、そもそも家康は戦回避のために大谷吉継、島左近、石田重家らに使者を派遣して説得し、三成自身を上杉討伐で味方に付けようとしていたという話もあります。また、家康は敗者となった三成の態度も褒めています。
家康とは関係ないものの、徳川家光の側室お振の方(自証院)は三成の曾孫(※3)に当たり、その子が尾張徳川家に嫁いでいます。徳川光圀は三成を忠義者として賞賛していますが、家康自身が一番、三成のような主君に忠義を尽くす者を欲していたのかもしれません。

同時代に生きたもの、近い時代に生きた者にとっては、石田三成はそれなりに魅力のある人物だったのが、後世虚像が膨らんでいったということもあるのかもしれません。才能があっても、全く魅力のない冷淡な人間であれば、秀吉政権の奉行にはなれなかったでしょうし、関ヶ原で形だけでもあそこまでの大軍は動かせなかったでしょう。
悪人とされて徳川時代、明治、大正、昭和と経た石田三成が客観的に評価されるようになったのは、ごく最近のことです。


※1:水口4万石の領地の半分2万石を島左近に与えたとされるが、そもそも三成が水口4万石を領したという証拠は乏しい。島左近は筒井家を辞した後、羽柴秀長・秀保に仕えており、秀保の死後、浪人となっていたところを佐和山城主となっていた三成に請われた、とも言われる。島左近は最後まで三成に忠義を尽くした。なお左近の遺体は見つかっておらず、関が原後の生存説も多い。
※2:石田重家は京都妙心寺の塔頭寿聖院の住職となり、貞享3年閏3月8日(1686年4月30日)に104歳くらいで亡くなったとされる。
※3:三成の娘は蒲生家家老岡重政に嫁ぎ、重政は、蒲生家2代秀行の正室だった振姫(家康の三女)と対立して切腹。その子、岡吉右衛門(三成の孫)は、蒲生家臣だった町野幸和の娘を妻に迎え、生まれた娘が、町野が春日局の甥(斉藤利宗の三男幸宣)を養子にしていた関係からか、春日局の養女となって家光の側室となったお振の方と言われる。お振の方と徳川家光の間に生まれた千代姫(霊仙院)が尾張徳川2代光友の正室。


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ラベル:合戦 日本史
posted by あお at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 悪人列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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