2012年11月06日

悪人列伝―亡国の宰相:賈似道

文治の国として知られた南宋王朝。
中国の南半を支配した南宋は、いわゆる水滸伝の時代を経て、北方の金王朝とはできるだけ和平で外交を進めていましたが、その後北方から南進してきたモンゴルと手を組んで、金を滅ぼすことに成功します。しかし、金の滅亡に乗じて中原を手に入れようとしたことがモンゴルの怒りを買いモンケ・ハーンによる南宋遠征を招きました。このとき指揮官の一人だったのが、モンケの弟で後に元王朝の皇帝となるクビライでした。

南宋はその成立当初から、しばしば重臣による独裁が繰り返されており、その中でも、秦檜(※1)、史弥遠(※2)など講和政策を進める宰相が相次いだため、形の上では戦争は遠ざかり、文化は大いに興隆するも、実際は軍事力が弱体化し、民衆は抑圧され、弾圧によって人材が失われて行きました。
独裁政権の最後を担ったのが、賈似道。
姉が皇帝・理宗の寵姫だったことから取り立てられた人物で、それだけでも進士(※3)出身の文官たちに嫌われる要素が強いわけですが、この人物、有能だったために重用されます。

両淮宣撫大使に任じられて、対モンゴル戦に備え、1259年、長江を渡河したクビライ軍を鄂州で迎え撃ち勝利。賈似道は功績を認められます。しかしこの時、クビライを警戒して四川から重慶へと進出したモンゴル皇帝モンケが急死しており、後継者問題が重要になったクビライは撤退する必要性に迫られており、クビライとの間で密約があったとも噂されました。

宰相となった賈似道は、反対派を粛清。理宗が崩御し、その甥の度宗が即位すると、ますます賈似道の独裁は強まり、太師となり、将軍らを権力から遠ざけます。
軍では呂文徳、呂文煥兄弟の力が大きく、モンゴルからの亡命者張世傑も彼らによって登用されました。
しかし賈似道は最前線の襄陽を守る彼らになかなか支援を送らず、孤立無援に戦わせることになります。また文人でもある科挙出身の逸材と言われた文天祥ともそりが合わなかったのか、免官しています。

1268年に始まった襄陽・樊城の戦いは、モンゴル側の用意周到な包囲戦と、賈似道政権による支援の乏しい中で苦しめられ、呂文徳の死後も呂文煥によって支えられてきましたが、1271年、さすがに危機感をもって派遣された范文虎による援軍も大敗。1273年、モンゴル側の漢人将軍史天沢らが長距離投石機「回回砲」による砲撃で樊城を攻めて守将の張漢英は降伏。樊城から回回砲による漢水を挟んだ渡河攻撃により、襄陽城の呂文煥も為す術がなくついに降伏。南宋は最重要拠点を失った上に、呂文煥降伏の報が伝わると、有能な人材がモンゴル側に流れてしまいます。

バヤン率いる攻略軍が南下してくると、一連の敗戦の責任と危機的状況に、賈似道は1275年、自ら出陣しますが、その前に現れた元軍の指揮官は、呂文煥だったとも言われます。呂文煥はクビライに重用され、アジュとともにバヤンの南宋攻略で指揮することになったわけです。
水戦に敗れ、都に戻った賈似道はついに失脚。福建へ流される途中、恨みを買っていた会稽県尉の鄭虎臣に殺害されました。

南宋はその後、崩壊の一途をたどります。
復官した文天祥は和平交渉のさなかに捕らえられ、その後脱走してゲリラ戦を展開するも、再び捕らえられ、クビライの説得も受け入れず、処刑されます。張世傑は、陸秀夫とともに幼い皇帝を擁して転戦しますが、1279年、崖山の戦いで陸秀夫と幼帝は自殺。張世傑も再起を図ってベトナムへ逃走中に船が沈没してこの世をさりました。
呂文徳、文天祥、陸秀夫、張世傑らは忠臣の代表格として賞賛されます。
呂文煥は、最終的にはモンゴルに降伏し、その将軍として故国を滅ぼす事になるわけですが、文天祥が彼の行為を批判したと伝わるものの、意外にも後世、亡国の奸臣という扱いはほとんどありません。
苦しい状況の中、長期に渡って抵抗し、それがクビライにも評価されたことがあるからでしょう。彼の行為よりも、彼を追い詰めた国家に問題がある、というわけです。

それに対し、賈似道はまさに奸臣、悪臣の代表格として、南宋では秦檜と並んで嫌われています。
ただ、賈似道の政策には、中国特有の文治思想があったところも大きいかと思われます。
三国志や水滸伝など現代に伝わる様々な群雄伝では武将が大活躍しますが、実のところ、歴代王朝では武官よりも文官のほうが重んじられる傾向が強くありました。軍を率いた歴史上の人物の中には、実際には文人官僚として軍の上に立つ、形式的な将軍だったものも少なくありません。

賈似道は個人的に美術品の収集を図ったり、コオロギ相撲にこだわったりといったところもありますが、公田法の整備や通貨改革を行なって財政再建を図り、不正を働く軍人を罰して綱紀を粛清するなど、一概に自身の権力を謳歌するためだけの政策だったとも思えぬところがあります。
文治政策を推し進めた彼には彼の、理想の政治、というものがあったのかもしれません。そしてそれを推進するために権力を握り、理解しないものを一方的に排除したのでしょうか。
しかし、武力によって南宋を滅ぼそうとするモンゴルの攻勢の前には、亡国の政治としか言いようがなかったでしょう。また恨みを買えば、それはいずれ自身に返ってくるのも当然と言えます。
単なる自己の利益のためだけの悪人とはいえないでしょうが、正道を進んだわけでも、現実的だったわけでもない、時代に適さぬ人物でした。

クビライは、次々と降ってくる南宋の将軍らが、賈似道の将軍らを軽んじる政策を批判して降伏の理由にしたのを聞き、賈似道が冷遇したからといって、皇帝に忠節を尽くさないことの言い訳にはならないことを批判しました。その意味で、徹底抗戦をした呂文煥や最後まで降らなかった文天祥を評価したわけです。

ちなみに、賈似道の甥の范文虎は敗北して降伏の後に元軍の指揮官となり、弘安の役で日本を攻めた司令官の一人となりますが、他の将軍らとの連携はうまく行かず、暴風雨のさなかに撤退。責任を取らされて殺されています。

※1:秦檜は南宋で奸臣の代表的人物。北宋を滅ぼした金王朝の支援を受けて和平政策を進め、将軍岳飛らを殺し、当初強大だった南宋の軍事力を弱体化させ、金との間で屈辱的な講和条約を結んだ。一方で、和平政策そのものは、国家と民衆を疲弊させないという意味で正しい方策という見方もある。
※2:史弥遠は、南宋中期の対金強硬派を退けて和平政策を推進した宰相。1208年から1233年まで長期政権を担う。
※3進士は文官登用試験である「科挙」の科目の一つで、のちには科挙の合格者のことを指すようになりました。



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2012年10月08日

悪人列伝−第六天魔王、織田信長

日本は古来より、和をもって尊しとなし、あまり突出する人材をよしとしない風潮があります。いまでも出る杭は打たれるとして、付和雷同的な風潮が強く、他人を思いやり、争いを避けようとする美点はあるものの、一方では相手にもそれを求めるため、しばしばお人好しなことをして、外交で中国などに出し抜かれたりしています。物事をはっきり言わずにナアナアにして過ごそうというのも、相手を傷つけまいとし争いを避けようという意識が働いているからでしょう。
証拠はないですが、古代、戦乱の大陸から逃れてきた人々や先住土着の人々が、お互い争って覇を競うより、手を組んで大陸からの侵略を警戒したほうがいいというような風潮がはじまりだったのかもしれません。記紀神話や神道の神社の順列を見ると大和政権の成立過程で、他の勢力を融和して取り込んでいった過程が推測できます。

そんな日本史の中で、時代時代で出る杭となっても社会を動かした人々がいます。中でもずば抜けて異色だったのが織田信長。
本能寺で滅びるまでに、日本最大の勢力となり、幕府に代わる新政府を築き、その組織は中央集権的で、異国と貿易し、宗教的にも厳格に対応しました。
戦国時代という現実的な社会の中では当然ではあるものの、それが彼のような現実主義者を生み、統一体制への流れを作っていったわけです。

尾張守護代の清洲三奉行のひとり、織田信秀の嫡男として生まれます(天文3年5月12日:1534年6月23日とされるも異説あり)。尾張は織田一族が分割統治のような状態にあり、信秀はその中では勢力を持っていましたが、強大な守護大名がまだ残る天下の中では、極小規模な勢力でした。
信長は若き日、衣装も乱れ、ワルガキどもを引き連れて山野を駆けまわり、父の葬儀には抹香を位牌に投げつけるなど、当時ですら異常な言動の数々。うつけ、と呼ばれていたと言います。
しかし、実際の馬鹿だったわけではなく、家臣を巻き込んだ弟や一族との権力闘争、特に稲生の戦い(弘治2年8月24日(1556年9月27日)※)を経て、尾張の大名へと成長。家臣団を掌握し、領地経営者として有能でした。

桶狭間の戦い(永禄3年5月19日:1560年6月12日)、稲葉山城攻略(永禄10年9月頃)は、信長の天下取りの足がかりとなる厳しい戦いでしたが、以後、足利義昭を将軍に奉じ(永禄11年10月18日)、その権威を背景に諸国平定へと乗り出します。しかし義昭との対立から織田包囲網が形成され、その対応に振り回されます。急襲して朝倉一族を滅ぼし(元亀4年8月20日:1573年9月16日)、義弟浅井長政も小谷城攻防戦で滅ぼし(元亀4年9月1日:1573年9月26日)、松永久秀、荒木村重の謀反に対処し、本願寺と一向一揆は長期に渡って苦しめられ、三方ヶ原の戦い(1573年1月25日:元亀3年12月22日)で敗れた最大の敵、武田氏を長篠の戦い(天正3年5月21日:1575年6月29日)で破って天目山で滅ぼし(天正10年3月11日:1582年4月3日)、一方最強の敵である上杉謙信に手取川で敗れる(天正5年9月23日:1577年11月3日)など、その生涯は強敵との苦戦の連続でした。

信長はスローガンとして「天下布武」を称していましたが、外交戦も展開し、敵には容赦しない一方で、味方には領地や権益を認め、婚姻政策にも積極的でした。宗教に対しても、一方的に弾圧したわけではなく、必要とあれば寺社への支援も行なっています。
比叡山の焼き討ちには、延暦寺の宗教らしからぬ武力や金、女犯、それに所領を巡る争いという、世俗的な問題が信長の怒りを買ったのは言うまでもありません。

羽柴秀吉のような身分の怪しいもの、松永久秀のような梟雄でも、有用であれば重用し、国人層と呼ばれる在野の勢力の協力を取り付け、絵師を保護し、料理人まで登用していたほど人材にこだわりました。家臣の家族のことにも気を使っていたことは、幾つかの記録から読み取れます。一方、能力の乏しいものはその地位を剥奪し追放するという容赦のないところもありました。

楽市楽座は彼の独創ではありませんが、積極的に採用し、畿内に進出すると堺を真っ先に抑えるなど、商業の重要性も知っていました。経済観念なくして天下布武も成り立ちません。南蛮貿易は言うまでもないでしょう。
茶の湯に権威を与えて政治に利用し、鉄砲を大量に投入し、長さ30間(約55m)幅7間(12.7m)の大型安宅船(鉄張りだったとも)を建造し、安土城のように天守閣を一種のシンボル化したことも、彼の現実主義的なところと、その視野の広さを反映しています。それが旧来の価値観を壊したが故に、悪く言われるようになった要因の一つといえるかもしれません。

戦に敗れるとまっさきに逃げるのも、生きていればやり直しも可能、という現実的な考えでした。もっとも「逃げる」という選択肢は、当時はそれほど変な考えでもなかったようで、多くの大名・武将が戦場から逃げています。

信長は、自ら第六天魔王を称していたとも言います。それとその苛烈な方針から、しばしばオカルト的な怖さで表現されていますが、もちろん、信長は人間であり、人間的な喜怒哀楽や悩み、考えもあったわけです。
第六天魔王とは、仏教の修行を邪魔する欲界の悪魔のようなもの。仏教の考えには六道(天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界)があり、天界以外はまさに欲によって成り立ちますが、天界の中にも六欲天があり、その一番上が他化自在天といい、そこにいるのが天魔波旬、すなわち第六天魔王でした。天魔は他人の楽しみを自由に我が身の快楽にすることができたとされています。
信長の思想宗教観では、まさにこの世を治めるには、人の持つ「欲」が重要だと認識していたのかもしれません。こういう清濁併せ呑むようなところも、「悪」を冠するにふさわしいと言えます。もちろん、小悪党ではなく、一代の英雄として。

※稲生の戦いは、信長の弟、織田信勝(一般には信行)が柴田勝家、林秀貞ら彼を支持するものと、信長に反抗した戦い。信勝は早くから後継者として信長に対抗していたようですが、信長の岳父、斎藤道三が敗死(弘治2年4月20日:1556年5月28日)したことを機会と見て挙兵するも敗北。信勝は一旦は母の土田御前のとりなしで許されるも、弘治3年11月2日:1557年11月22日に河尻秀隆らの手で暗殺されました。

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ラベル:合戦 歴史 日本史
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2012年09月19日

悪人列伝―日本史上最大の反逆者、明智光秀

2014年の大河ドラマの候補にもなっているという明智光秀。
歴史に疎い人でも、織田信長を本能寺で滅ぼした人物として知っている、ある意味最も知名度の高い人物の一人。
しかし、これまでは、主君を裏切って殺害した謀反人としての評価が主流でした。
近年は、その謎めいた生涯が、学界を賑わせ、様々な創作のテーマになり、メディアでも盛んに取り上げられています。正体不明な分、いろんな解釈ができることが、人々を刺激させるのでしょう。

光秀の出自は、一般的には美濃土岐氏系の明智城主の一門とされ、斎藤道三とその子義龍の争いで道三方について没落し、光秀自身は母親の出自である若狭武田氏を頼った後、越前朝倉氏に仕えたと言われています。朝倉氏のところで、13代将軍足利義輝殺害事件(永禄8年5月19日:1565年6月17日)で難を逃れてきた足利義昭と知り合い、織田信長への上洛を要請する使者として向かい、義昭の家臣として信長に協力することになります。義昭が将軍となる(永禄11年10月18日:1568年11月7日)と、その後は徐々に信長との対立が鮮明化し、光秀は義昭から離れ、信長の家臣となって活躍。比叡山焼き討ち(元亀2年9月12日:1571年9月30日)、各地の一向一揆との戦いと石山本願寺との攻防戦(元亀元年9月12日:1570年10月11日〜天正8年8月2日:1580年9月10日)に参加し、松永久秀討伐戦(天正5年10月5日:1577年11月14日〜同年10月10日:同年11月19日)、有岡城討伐戦(天正6年11月10日:1578年12月8日〜 天正7年10月19日:1579年11月7日)、そして丹波攻略を担当して、信長の軍団長の一人にまで出世。惟任の姓を与えられ、近江坂本と丹波を領有する大名となりました。
天正10年6月2日(1582年6月21日)、光秀は中国攻略の途上、京の本能寺にいた信長を襲撃して滅ぼします。朝廷工作や近隣の小大名、そして縁戚関係のある大名らへの工作を進めているさなか、変後11日目にして、中国から大返ししてきた羽柴秀吉軍と山崎で衝突。大敗し、落ち延びる途中、落ち武者狩りによって百姓の竹槍に刺され、殺害、あるいは自害したとされています。

出自には諸説あり、不明なことも多く、その前半生もよくわかっていません。
年齢も、ドラマやマンガなどでは若く描かれがちですが、信長よりも年上と見られています。
そして最大の謎が、本能寺の変を起こした動機。心理を伺わせる記録はほとんどなく、文献史学の悩みどころでもあります。
また、従来言われてきた、「信長からの打擲の数々」「国替えの強制」「饗応の不手際を責められたこと」「保守的な思想が信長の革新的な政策と相容れなかったこと」というのは、ほぼ江戸時代中頃以降に創作されたもので、同時代の記録にはわずかにルイス・フロイスの「日本史」に「光秀が信長から足蹴にされた噂がある」といった僅かなものしかありません。

記録に見られる動きからすると、むしろ逆に、信長と光秀は非常に似たもの同士だった、ウマがあった、という説のほうが注目されています。例えば、仏教勢力を攻撃した信長に対し、従来は反対していたという光秀は止めるどころか、むしろ積極的で、比叡山焼き討ちでも功績をあげています(むしろ秀吉のほうが僧侶らを密かに助けたという説も)。信長は光秀を最大限に評価し、外様でありながら、最も重要な畿内の軍事管轄を任せ、京・安土に近い近江と丹波に領地を与えています。惟任の姓を与え、饗応や馬揃えの役を任せるなど、信長家臣団の中でも群を抜いて特別扱いでした。
また、光秀側も本能寺の変の直前まで、妙な動きは一切見せていないため、変そのものは、唐突に起こったような感があります。

これらのことから、動機についての様々な説が唱えられているものの、どれも、「これだ!」というほどの説得力がありません。
打擲された、というのは信長であれば、十分考えられるでしょうが、それは他の武将でも言えることですし(それどころか追放されたり殺された家臣は多数います)、国替えの命令も秀吉政権や徳川政権でも頻繁にあるため、それほどおかしな話ではありません。信長と光秀の考え方の相違、という証拠は創作以外には見られないし、光秀が変後に協力を求めたのが没落した守旧勢力だったのは、織田家の支配域ではそれしか選択肢がなかったとも言えます。
あとはよくある、陰謀説。朝廷黒幕説、公家黒幕説、家康黒幕説、秀吉黒幕説、足利義昭黒幕説、宣教師黒幕説などがありますが、どれも史実の一部だけを見て、あとは想像で論じているようなところがあります。陰謀説は話としては面白いものですが、実際には、なにもかもが陰謀、というのはちょっと非現実的です。

ただ、これらの黒幕とされた幾つかの勢力が、動機に影響した可能性は否定出来ないでしょう。信長と対立した朝廷や公家、上杉や長宗我部、毛利といった織田家と敵対していた大名、寺社勢力などの意向や情勢が光秀に伝わり、信長を倒したあとに協力を得られるのではないか、という計算は働いたと思います。あまりにも秀吉の来襲が早かったため、光秀の考えが世に反映される前に滅んでしまったのが、謎を謎たらしめてる所以でしょう。

また、唐突という形で信長・信忠親子が空白地帯に置かれていることに気づいて、急遽打倒を決めたのかもしれません。
歴史上には、明確な目的のないままに起こってしまった反乱や騒乱が重大な結果になってしまったことはいくつもあります。
こういう場合、史料的に評価しにくいのが難点でしょう。

光秀は謀反を起こしたことで、忠君を重要視する徳川政権下でも、明治以降の天皇制のもとでも悪く言われてきました。フロイスの「日本史」には陰謀家としての面も描かれているため、ある程度そういう性格はあったのかもしれません(ただしフロイスが異教徒に対して悪意を持って描いている面は引かなければなりませんが)。
一方で、倒した相手が強権的な主君信長であったこと、光秀が領地経営の手腕に優れていて領民に慕われていたこと、記録上も妻の妻木煕子との仲が良かったことがわかることなどから、近年は好意的に見直されつつあります。

なお、著名人にはよくあることですが、光秀や嫡男光慶にも生存説があります。その中には南光坊天海になったというのもありますが、いささか無理があるようです。また、坂本龍馬を輩出した高知の坂本家は明智秀満(光秀の重臣)の子孫を称していますが、実際には定かではありません。


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