2012年09月13日

悪人列伝−神になった盗賊、高坂甚内

高坂甚内は、盗賊から神になった人物。
武田の家臣だった高坂は、素破、すなわち忍者だったとも言われ、高坂弾正昌信(※)の子(あるいは孫)という説もあります。
武田氏が滅亡したのち、宮本武蔵に拾われ、その弟子となるも私利私欲に走って逃走したという伝承もあります。やがて江戸へ出てきて、盗賊となります。主家武田家の再興を図ったと言いますが、江戸から東海道にかけて散々に悪さを働いたとか。
これはいつの時代にも良くあることですが、まだ治安が安定していない頃は、権力者が裏社会の実力者と組むことがあります。
高坂もそういう一人で、徳川家康に接近し、裏社会に関する様々な情報をもたらしました。

当時江戸の町を荒らし回っていたのが、風魔一族(※)。風魔は北条氏に仕えた忍者の一派で、北条氏が滅んだのちは、敵だった徳川の支配する江戸を荒らし回るのは当然至極のこと。元が忍者だっただけに、幕府もなかなか取り締まれなかったわけです。
同じ忍者であり、裏社会の実力者高坂にとっても風魔は邪魔な存在。そこで高坂は風魔の組織、潜伏場所を探り、その情報を幕府に通報しました。
1603年、風魔の頭領、5代目風魔小太郎は捕らえられ、高坂は幕府の信頼を勝ち得たかのように見えます。当然、引き替えに利権を求めたことでしょう。

しかし、これまたいつの時代にも良くあることですが、社会が安定してくると、たとえ協力者でも裏社会の人間は政権にとって邪魔になってくる。風魔という最大の問題が消え、江戸の治安が安定してくると、今度は裏社会で大きな力を持つようになった高坂自身が危険視されるようになりました。幕府はついに高坂の捕縛命令を出し、高坂は逃走。10年にわたって逃げまわります。彼を支持し匿う人も多かったのでしょう。

しかし彼は「瘧」に罹ってしまった。今で言うマラリアと見られる病気です。逃げられなくなった高坂は隠れ家を密告されて捕らえられ、処刑が決まります。市中引き回しの上、処刑場へ連れてこられた高坂は見物に来た人々に向かって叫びました。
「我、瘧にあらずば何ぞ召し捕れんや。我ながく魂魄を留め、瘧に悩む人、我を念ずるものあらば、これを平癒なさしめん!」
「私は瘧にさえ罹っていなければ、捕らえられることはなかっただろう。だから私はこの世に長く魂魄を留めるから、瘧に罹って苦しむ者は、私に祈るが良い、さすれば治してやろう」ということ。
彼は慶長18年8月12日(1613年9月26日)に浅草鳥越の刑場で処刑されました。
人々は処刑場のそばに社を建て、永護霊神として彼を祀りました。これがのちの甚内神社。江戸の庶民は、病に罹ると神社に詣でて彼に祈ったといいます。
この甚内神社、今も浅草橋鳥越に残っています。
庶民に有名だったためか、彼には、『番町皿屋敷』のお菊の父親という設定もあります。

ところで、江戸初期には三甚内と呼ばれる三大裏の実力者がいました。一人が高坂甚内。もう一人は庄司甚内と言い、吉原遊郭を作った人物。三人目が鳶沢甚内。この男も盗賊でしたが、幕府に捕らわれた際に盗賊らの情報提供を協力するから古着市の支配権を認めてくれ、と申し出て認められた人物です。この鳶沢甚内が高坂甚内の居場所を密告した人物です。

※高坂昌信…武田四天王の一人。弾正忠。実名は春日虎綱ですが高坂昌信で有名。海津城城代。勝頼の代になると越後上杉景勝との同盟を推進した。大永7年(1527年)〜天正6年5月7日(1578年6月12日)。
※風魔…元は風間。頭領風魔小太郎は、ゲームなどでも有名。忍者200人を抱えて後北条氏に仕えた一族ですが、『北条五代記』以外に記録がないため、実在は不明。北条関係の文書に風間出羽守など風間という名字の家臣がみられることから、その関係者かもしれません。風魔小太郎は、堕落した一族を嘆いた家臣の密告で捕らえられたとも言います。
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2012年09月05日

悪人列伝−中国史上最高の「悪役」曹操

三国志演義で劉備の最大の敵として立ちはだかるのが曹操。字を孟徳。日本の小説や漫画によく見られる「曹操孟徳」という表現はあまり使わない方法で、曹操か、曹孟徳というのが普通です(字は諱の代わりなので。ただし文章中には同時に使っている例は当時からある)。
漢の建国の功臣、曹参の後裔とされていますが、祖父の曹騰が4人の皇帝に仕えた大宦官で、当然子孫がいないのを特別に許されて養子を迎え(子孫を残し社稷を守るのは儒教では重要な問題)、同じ漢の建国の功臣夏侯嬰の後裔にあたる名門夏侯氏から迎えたのが、曹操の父親である曹嵩でした。有力な将、夏侯惇・夏侯淵はそれぞれいとこで、同じ有力な将、曹仁よりも近い親族になります。

曹操は若くして素行が悪く、評判の悪い人物でしたが、橋玄や月旦評(月一回の人物評)をしていた許劭などからは高く評価されていました。許劭が曹操を評した「治世の能臣、乱世の奸雄」は有名。
20歳で孝廉(※1)に推挙され、洛陽北部尉(帝都北門地区の警察長官)となり、有力者でも容赦なく法令に従わせたことから、敬遠されて頓丘県令に栄転、さらに議郎を歴任しました。
黄巾の乱では戦功を上げ、近衛軍である西園八校尉の一人となり(中平5年10月・西暦188年)、董卓専横では反董卓連合軍(初平元年・西暦190年)の一員となるも、彼自身は有力な地盤を持っておらず、他の軍閥から出遅れ、兵を集めるのにも苦労しています。一方で、黄巾の乱で青州黄巾賊30万を傘下に収めて力をつけ、建安元年(196年)8月に献帝を自分の拠点である許に迎え入れてからは、国家の大義を背景に勢力を拡大しました。

初期の最大の敵だった呂布との攻防(興平元年・西暦194年)や、最大勢力だった袁紹との官渡の戦い(建安5年・西暦200年)などは苦戦を強いられましたが、最終的には勝利を収め、以後も慎重に動きつつ、黒山賊を降し(建安10年・西暦205年)、袁氏を滅ぼし(建安12年・西暦207年)、烏桓や南匈奴(※2)を抑え(建安12年・西暦207年)、公孫氏を傘下に組み込み(同年9月頃)、河北から朝鮮半島北部までを支配下に置くと、荊州へ乗り出しこれをあっけなく手にします(建安13年9月・西暦208年)。
しかし、ここで呉の孫氏と対立。赤壁の戦いで大敗を喫しました(同年冬頃)。
ただ勢力としてはそれほどダメージはなかったのか、以後も長江流域に進出し、黄河沿いに長安方面にも進出して関中十軍閥を撃破し(建安16年3〜9月頃・西暦211年)、漢中へ進出して五斗米道(※3)を降し(建安20年冬・西暦215年)、蜀を窺うまでになります。蜀は劉備に先んじられ漢中も後に奪われますが(建安24年・西暦219年)、当時の漢王朝の領域の7〜8割は抑え、呉や蜀と同列に扱われていますが、国力差は大きく、圧倒的な勢力を築きました。
劉氏以外の臣下としては異例の、魏公(建安18年・西暦213年)、ついで魏王(建安21年・西暦216年)の地位に就き、漢帝国内に魏国を建国。禅譲まであと一歩のところで病没しました(建安25年1月23日(220年3月15日))。ただ皇帝になるつもりだったのか、帝位は次代に譲る気だったのか、あるいはあくまで漢の臣下の分を守るつもりだったのか、そのあたりは不明。息子の曹丕が魏王を継いで、献帝から禅譲を受け皇帝となり、同年魏を建国しました。

曹操が悪く言われるのには、彼の行為の中に大きく2種類の「悪行」があるからでしょう。ひとつは彼を助けた呂伯奢を殺害した事件、名医華陀(※4)の処刑、徐州侵攻による民衆虐殺といった人道的な問題を起こしたこと。もうひとつは、献帝や皇后に対する厳しい対応、孔子の子孫孔融の処刑、求賢令の発令、王公の地位についたこと、といった儒教的な問題を起こしたことにあると思われます。また、曹操が宦官の孫、という点も、批判の背景にあるでしょう。
呂伯奢の事件など、曹操の行為の中には、正史(※5)『三国志』ではなく、その敵対勢力の書に記されているものも多く、正史が意図して外したのか、他の書物が悪意をもって記したのか定かではありません。徐州虐殺は正史にもあるため事実でしょうが、曹操による将兵の管理が完全ではなかったということもあるのか、曹操が比較的早くから『孫氏兵法』に注釈をつけて書物にしたのも、臣下将兵への教育に理由がありそうです。
求賢令とは、人材募集の政令ですが、この中で不道徳な言動の人物でも推挙せよ、という意味の内容がくどくどと付記されています。人材募集が趣味のようだった曹操らしく、また中国の歴史では異例の命令でもありますが、曹操が身分や言動に関係なく才能を重視したのは、自身が宦官の孫という、儒教的に見て蔑視される立場にあったことが大きかったと思われます(※6)。孔融との対立もそういう背景があったのかもしれません。
曹操は早くから劉備の敵対者、悪の親玉というふうに捉えられ、物語が生まれ、のちに三国志演義となりました。
東晋以降の異民族に領土を奪われていた時代に特に善玉劉備対悪玉曹操の構図が出来上がっていったという説もあります。
一方で、正史三国志の著者陳寿、その注釈者裴松之をはじめ、評価している人物も多く、特に近代に入り、魯迅や毛沢東などは反儒教的な思想から曹操を評価しています。日本では儒教の影響が弱く、さらに吉川英治が小説『三国志』で曹操を人間味のある準主役として扱ったことから、以降の小説やマンガ、ゲームはその傾向が強く、曹操は人気のある英雄の一人です。

曹操は、外見はさほど立派ではなかったといいます。しかし、自ら先陣に立ち、剣をふるい、敵対した人物を許し、部下の意見を採用し、屯田による開拓を進め、漢詩の元となった四言詩、五言詩を歌謡・楽辞から発展させて自ら歌い、のちに日本酒の醸造法にも影響した九醞春酒法を皇帝に上奏するといった具合に多彩な人物でした。
そんな彼だからこそ、家臣らはもとより、民衆にも相応に支持を得られ、あれだけの国家を作れたと言えます。

※1孝廉…漢朝で行われていた郷挙里選制度の科目の一つで、地方長官に命じて、毎年国や郡から孝行な者、廉正な者を推挙させた。官僚となる有力な道だったものの、権力の世襲化が進み、軍閥が強くなると、その子弟から選ばれるようになった。ほかの科目に賢良・方正・直言・文学・計吏・茂才などがある。
※2烏桓・南匈奴…北方の異民族で、この時代は長城を越えて漢の領土に入り込んで居住。烏桓の騎兵は曹操軍の強さを高めたと言われる。なお南匈奴はのちの五胡十六国のきっかけを作った部族で漢や魏王朝とは比較的友好関係にあった。
※3五斗米道…現在の道教の起源となる宗教勢力。当時漢中を支配。信者に五斗の米を寄進させ、流民のために無料の食事処を各地に置いた。当時の教祖は不老だったという張魯。
※4正史…正しい歴史という意味ではなく、国家が作らせた正統の歴史書。王朝交代後に前王朝の分が記されるのが普通。『三国志』は西晋に仕えた陳寿の編著で、西晋が魏から禅譲を受けているため、魏を正統国家としている。ただし曹操については都合の悪い内容も記されている。
※5華陀(字は元化)…正史に見られるものの、かなり伝説的な医者で、麻酔技術を持ち、開腹手術や鍼治療、投薬、健康体操に優れていたとされています。正史の記述では、医術を評価する曹操に対し、医者の地位が低く、儒者としての評価を期待した華陀は、曹操に失望し、嘘をついて曹操の元から去ろうとしたため、怒りを買って殺された。曹操は自身の優秀な子曹沖が病死した際、華陀を殺したことを悔やんだとか。華陀も元化も先生とか教化するという意味に通じるため、架空の人物という可能性もあるほか、異民族説もある。
※6「宦官の孫」…陳琳は袁紹の檄文を記し、曹操のことを「贅閹遺醜」(贅閹、すなわち、去勢された奴の余り物(養子)が遺した醜いせがれ)などと称し、曹操は「これを読むと腹が立つ」と言いつつ、その文章を賞賛しています。
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2012年09月02日

悪人列伝−「貿易王」平清盛

2012年の大河ドラマの主人公となった、平清盛。視聴率は思わしくないようですが、テーマがマイナーだったかもしれません。しかし魅力ある人物には違いありません。
平家にあらずんば人にあらず、の絶対政権を築き、驕る平家は久しからず、で滅んだ一代の梟雄とも言える人物。
以前は、源頼朝が起こした鎌倉幕府が最初の武家政権という位置づけでしたが、最近は、その前に存在した平氏政権が最初の武家政権、という解釈が一般になりつつあります。

平氏が、有力な軍事集団だったとはいえ、権力階層だった公家の世界へと入り込むようになったのは、清盛の父、平忠盛から。忠盛は、伊勢平氏平正盛の子として生まれ、父が白河院に接近したのを受けて、彼も、白河院、次の鳥羽院という強大な院政によって、院の専門軍事組織と化していきました。院への接近は、所領の寄進という方法を使いました。名義を朝廷の実力者に譲り、利益の一部を献上する代わりに、特権と在地の実質的支配権を得るわけです。
正盛が朝廷への足がかりを築いて、その子忠盛が、同様の方法で実質の権力を得たのです。
忠盛は、宋との貿易も推進し、莫大な富を得ます。それらもふんだんに朝廷への工作に使い、鳥羽上皇勅願の得長寿院造営を担当し、千体観音を寄進したことで、内昇殿を許されるという破格の待遇を受けました(天承2年(1132年))。位としては十分の地位にありましたが、武士の立場での昇殿は過去に僅かな例しかなく、「未曾有のこと」と公家の反感を買い、暗殺されそうになったのを、竹光を使って難を逃れた、という逸話(『平家物語』)もあります。忠盛は公卿(従三位以上)となる寸前で病死しました。
忠盛が昇進できたのは、寄進だけではありません。実際に、反乱を起こした武装勢力を討伐し、盗賊を捕らえ、そして比叡山の僧兵らを武力で抑えるといった功績が認められたからでした。しかし、以前は、その功績は一定どまりであったのを考えると、経済力が物を言ったといえるでしょう。

その忠盛の子として生まれた清盛には、白河院の御落胤、という真実定かではない噂が、当時からありました。
事実、忠盛の子というだけでは説明がつかないほど、清盛は早くから出世街道を進んでいます(大治4年(1129年)正月、わずか12歳で従五位下・左兵衛佐となっている)。
噂の根源には、正盛、忠盛が仕えたこともある祇園女御という女性の存在があります。白河院の寵姫だった彼女は、清盛を猶子にし後押ししていました。一説には、清盛の母親は祗園女御の妹だとも言います。
出世街道を進むかに見えた清盛ですが、祇園闘乱事件(久安3年6月15日(1147年7月14日)祇園社とのトラブルで清盛の家人が宝殿に矢を射てしまった事件)で延暦寺と対立し、一時期異母弟平家盛(※)に後継者争いでリードされますが、弟が病死すると、平氏の後継者となります。保元の乱(保元元年7月11日(1156年7月29日))、平治の乱(平治元年12月9日(1160年1月19日))では勝者側についていますが、どちらも積極的に関わったわけではなく、むしろ巻き込まれた感があります。しかし最終的に両乱で権力の競争相手が没落し、後白河上皇と二条天皇の両者にとって唯一の有力者として残ったのが清盛でした。

清盛は、父の政策を受け継いで貿易に従事し、西国を中心に兄弟や子供をを配していき、妹や娘を天皇や上皇の后として送り、摂関家とも姻戚関係を築いて、絶対的な権力者の立場に就きました(特に妻の妹滋子が後白河上皇に嫁いだことが大きかったという)。
当時は、上皇と天皇が対立関係にあり、両者との距離を保ちつつ権力を維持するのに腐心しています。
絶対権力者の清盛に、上皇も、公家勢力も徐々に反発するようになり、反平氏勢力が結成され、後白河法皇も平家排除に乗り出します。鹿ヶ谷事件後も、病死した嫡男平重盛の領地を没収するなどしたため、清盛は朝廷における反平氏勢力の一掃に乗り出し、治承三年の政変(治承3年(1179年)11月17日)を起こしました。しかしこれが後白河の子以仁王の反感を招き、源氏勢力の反乱へと発展していきます。
反乱の中、清盛は熱病にかかり、自ら助命を決めた「頼朝」の首を、「我が墓前に供えよ」と言い残して没しました。治承5年閏2月4日(1181年3月20日)のことでした。
跡を継いだ三男宗盛は、平氏政権を支えていくほどの器量がなく、各地の反乱も抑えられず、わずか4年後の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦で滅亡しました。まさに一代の政権で終わったわけです。

平氏を倒した源氏政権は、平氏を悪く言うことで名分をもち、清盛の権力ぶりも、のちに悪く言われる要素となりました。そのため、清盛政権の評価は近年まで低いままでした。瀬戸内航路の開発や経済の活性化などは、むしろ先進的だったと言えます。また、源氏政権を支えたのが、関東の平氏諸豪族だったように、各地の平氏一族は「平家滅亡」後も残りました。

※平頼盛は、清盛の育て親である池禅尼の実子で久安5年3月15日(1149年4月24日)に病没。池禅尼が源頼朝の助命を清盛に依頼したのは、頼盛の幼い頃に似ていたから、と『平治物語』にあります。なお頼朝は、熱田神宮大宮司の娘由良御前の子で、宮中で統子内親王に仕えていたため、上皇らの助命要請によって許され伊豆流罪(永暦元年(1160年)3月11日)で済んだという説もあります。
posted by あお at 11:07| Comment(1) | TrackBack(0) | 悪人列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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