2012年08月28日

悪人列伝−天皇を弑逆した権力者、蘇我馬子

蘇我馬子は、飛鳥時代の有力者。
皇位継承の争いで、敵対した穴穂部皇子を殺害した他、自ら即位させた崇峻天皇も、敵対的な言動があったとして東漢駒を使って殺害。
さらにその東漢駒を口封じのためか、自分の娘を奪ったとして殺害し、また天皇領の葛城県の割譲を推古天皇に迫り、私的な陵墓建設に民衆を動員するなど、皇室の権威をないがしろにする専横ぶりから悪人とみなされています。
朝鮮半島への出兵を企図して、新羅などに圧力をかけたことも、現代における平和主義的な理屈からか、ドラマなどで否定的に紹介されています。
ともに政治を動かした聖徳太子とは正反対の老獪な権力者、という構図で創作作品に描かれるのは、聖徳太子を理想化したところがあるからでしょう。
そもそも絶大な権力と、富を手中にしたという基本の部分で、権力悪としての存在が成り立つわけです。

蘇我馬子の父は蘇我稲目、子は蘇我蝦夷、孫は蘇我入鹿で、いずれも有名な人物。父はともかく、子や孫も、権力悪の代表格です。
入鹿の代にいわゆる「大化の改新」、正確には乙巳の変(皇極天皇4年6月12日(645年7月10日))で滅びているため、ここで終わっているように間違えやすいですが、蘇我氏は他にもおり、馬子の長男は蝦夷ではなく、蘇我善徳という人物。
さらに蘇我倉麻呂という子もおり、倉麻呂の子が、蘇我倉山田石川麻呂。彼は乙巳の変では、中大兄皇子側についた人物ですが、大化5年3月25日(649年5月15日)にその中大兄皇子らに謀反の罪で誅殺されました。しかし石川麻呂やその兄弟の子孫も有力者として大臣などに就き、藤原不比等らとも姻戚関係を結びますが(不比等の正妻は蘇我娼子で藤原四兄弟のうち京家以外の3人の母)、平安初期に没落しました。
朝臣石川氏や安芸氏などがその後継を称しています。また天皇家と藤原氏にもその血が受け継がれています。

蘇我馬子の事歴は、『古事記』『日本書紀』に記載されているものが主で、両書の成立年が奈良時代。蘇我本流を滅ぼした天智天皇(中大兄皇子)の子、元明天皇の時代で、さらに中臣鎌足の子、藤原不比等の影響力が強かったことから、悪く書かれたという説もあります。
一方で、蘇我馬子も編纂に関わったとされる『国記』『天皇記』(乙巳の変で大半が失われたという)も、『古事記』『日本書紀』への関連が指摘されています。
馬子の時代には、後の世ほどに天皇の絶対性が確立されていなかったということもあるでしょう。のちに弑逆などの天皇家に対する行為が余計に大きく取り上げられるようになったのは、事件の動機に皇族の権力闘争や仏教を巡る争いがあったとしても、天皇を頂点に立てる後の世界観が大きく影響して蘇我氏への批判につながったわけです。

ちなみに、現代の創作ものでは、聖徳太子が、蘇我馬子、あるいは、蘇我馬子の実子、という説も登場しており、これは蘇我氏への見方が変わった結果とも言えます。

なお、蘇我氏の先祖には、皇族、武内宿禰、在地の豪族という説もありますが、渡来人という説もあります。
渡来人かどうかはともかく、新興の統一国家だった隋・唐と交流する外交を重要視していたという説もあり、また、東漢駒ら渡来人と関係がありました。この蘇我氏の対外的な政策が、保守的で百済救援を進める中大兄皇子や中臣氏らとの対立を生んだ結果が、乙巳の変の要因の一つとも言われています。
実際、変の後も、大陸に対して重要な役職であった筑紫率(大宰帥)に蘇我日向、蘇我赤兄らが任命されていることからも、蘇我一族がその方面に強かったのかもしれません。

以上の項目は、総合年表サイト(http://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
ラベル:歴史 年表 日本史
posted by あお at 11:40| Comment(1) | TrackBack(0) | 悪人列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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