2013年04月07日

隣国同士の関係:パレスチナ4―ホロコーストとイスラエル建国

現在のパレスチナ問題の直接的原因は、イスラエルの建国。その背景にはホロコーストがあります。

各地で殺戮を含む迫害を受けてきたユダヤ人ですが、その最大のものが、ナチスによるホロコーストでした。
ホロコーストは、ギリシャ語でお祭りのお供え物の動物を「丸焼き」にすることを指し、そこから火災による惨事や、大量虐殺などへと意味が転じていきました。

第一次大戦後の混乱期に、小政党だったドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党=ナチ)にヒトラーが入り、そのアジテーションの旨さから党代表へとのしあがります。当初はミュンヘン一揆などを起こしてヒトラーも投獄されましたが、それが逆に知名度を高め、その後はヴァイマール政府に対する社会の不満を吸収して、合法的に勢力を拡大していきます。1932年の選挙で第一党となり、翌年1月30日、ヒトラーは首相に就任。3月24日、全権委任法で独裁権力を手にしました。

ヒトラーは青年期を過ごしたウィーン時代の挫折や敗戦の経験からか、早い段階から反ユダヤ主義でしたが、ナチスはのちに、本来宗徒が基準の「ユダヤ」を血統としてユダヤ「人種」と認定し、独自の優生学的アーリア民族主義から、ユダヤ人を劣等民族とみなし、差別するようになります。ヒトラーの著書『我が闘争』でもすでに、「ユダヤ人問題の解決」がドイツ再生の大きな問題とされています。
具体的な政策としては、ヒトラー政権樹立後の1933年3月28日に、ユダヤ商店へのボイコット政策として、「反ユダヤ主義的措置の実行に関する指令」を出し、4月7日には「職業官吏団再建法」によって、公務員から追放します。しかしユダヤ人とは何を基準とするかが問題となったため、1935年9月15日には「ドイツ人の血と名誉を守るための法」と「帝国市民法」を制定(2つでニュルンベルク法という)。ここで祖父母及び両親の何れかにユダヤ教徒がいるかどうかで民族性を定めます。しかし「血統」の範囲を広げると、かなりのドイツ人が含まれるため、後に、4人の祖父母のうち1人がユダヤ教に所属している者は、「第2級混血」としてドイツ人と認めるが、それ以上のユダヤ教徒を祖父母両親に持つ人物は、本人の宗教に関係なく完全ユダヤ人としました(同年11月24日「帝国市民法第一次施行令」)。
ニュルンベルク法では、帝国市民とドイツ国籍を区分し、ユダヤ人にはドイツ国籍は認めるが、帝国市民とはしないことを決めました。そして帝国市民でないものの権利、すなわち政治的権利、職業の自由、そして婚姻と性交渉の対象を制限しました。ただこの時点ですでにユダヤ人は公民権を奪われていたため、いわゆる差別政策の最後の法的措置だと考えられていました。また、上記法で区分上は「ユダヤ人」とされるにもかかわらず、書類の改竄などにより「アーリア人」となった人物が有力者やナチス党員にも多数いたといわれています。すでに多くのユダヤ教徒とキリスト教徒は混ざり合い共に暮らしていたからです。

ナチス政権は経済のアーリア化政策で1937年後半からユダヤ資本はドイツ資本へ売却されることになります。これは当初、民間取引として行われましたが、その後強制化され、1939年9月1日以降、ユダヤ資本は禁止されました。
1938年8月17日には、ユダヤ人へユダヤ人らしい名前に改名することが強制されます。
1938年10月6日、ポーランド政府は旅券法を更新し、ドイツのポーランド系ユダヤ人のポーランド入国を制限します。これはポーランドでも反ユダヤ主義が強かったため、ドイツからのポーランド系ユダヤ人強制送還に対応したものですが、この事で両国は対立。11月7日、行き場を失ったユダヤ人の困窮を知ったフランス在住のポーランド系ユダヤ人ヘルシェル・グリュンシュパンが、事態を世界に訴えようとパリのドイツ大使館で、応対した三等書記官エルンスト・フォム・ラートを銃撃、ラートはまもなく死亡する事件が起きます。このことを知ったドイツ国内、オーストリアなどの各地で、11月9日夜から11月10日にかけてユダヤ商店やユダヤ資本への大暴動が起こります。これが「帝国水晶の夜事件」です。ナチスの指示による官製暴動だとも言われています。さらにユダヤ人らのほうが逮捕されました。
11日にはユダヤ人の武装禁止、12日にはこの暴動の始末を付けるため、ユダヤ団体に罰金を命じ、ドイツ企業にユダヤ人の解雇を、破壊された施設の修復をユダヤ人に命じる3政令を発します。15日にはユダヤ人のドイツ学校への登校を禁止。23日にユダヤ人を文化施設(劇場・映画館・音楽会・ダンス場)へ立ち入ることを禁止。免許や恩給の剥奪も行われ、ナチス幹部による「ユダヤ問題への最終解決」が盛んに言われるようになります。12月31日からは身分証明書にユダヤ人であることを示す「J」の文字が記入されました。
この時の、ユダヤ問題の解決方法は、国外追放でした。
1939年1月24日にはゲーリングが、ユダヤ人国外移送に関する組織の立ち上げを指示しています。
移送の有力候補地がマダガスカル島で、マダガスカル計画と呼ばれました。大戦勃発後の1940年6月18日にヒトラーとムソリーニの会談で取り上げられ、さらに6月25日には、講和したフランス政府によって移住計画を進めるという具体的な案が出されています。ポーランド各都市のゲットーへ送るよりもいい、とナチス幹部も乗り気でしたが、マダガスカルをめぐってのイギリスとの戦いが実施困難に追い込んでいきます。
そのため、ポーランドのゲットーは拡大されて行きました。
また前線に近い東方では、保安警察及び保安部の特別部隊アインザッツグルッペンが「敵性分子」として、ユダヤ人の殺戮作戦も実施していました。この活動には軍部や地元のユダヤ系以外の住民の協力もあったと言われています。

1942年1月20日にベルリンのヴァンゼー湖畔の別荘で、ユダヤ人問題の最終的解決を話し合うヴァンゼー会議が親衛隊幹部や占領行政官らによって開かれました。ここで絶滅政策について確認したとされていますが、具体的な史料に乏しく否定する説もあります。7月19日に親衛隊指導者ハインリヒ・ヒムラーはゲットーのユダヤ人を収容所へと強制移送することを命じます。
つづいて1943年4月19日より親衛隊少将ユルゲン・シュトロープによって第二次移送が行われ、移送の実態を知ったユダヤ人たちが蜂起。これがワルシャワ・ゲットー蜂起(ワルシャワ蜂起とは異なる)ですが、失敗に終わりました。移送先は主にベウジェツ、ソビボル、トレブリンカの三大絶滅収容所でした。
これら絶滅収容所は占領下のポーランドに作られました。ドイツ国内の強制収容所と戦後長いこと混同されていましたが、実際には明確に区分されています。三大絶滅収容所は、1943年10月14日のソビボル収容所からの大規模脱走事件などもあり、閉鎖され隠滅されました。
代わりに拡張されたのが、アウシュビッツ=ビルケナウ収容所。ここに大勢の人がヨーロッパ各地から貨車で輸送されて、ガス室へ送られ、主にツィクロンBを浴びせられて処刑されたといいます。対象者を安心・油断させるため、延命を認められたユダヤ人によるゾンダーコマンドが手助けをしました。遺体からは金歯などが抜かれ、焼却処理されました。ただし、遺体から干し首や、皮膚を貼ったランプシェード、脂肪の石鹸などを作ったという話は、証拠品がなく、ナチスの残酷さを誇張するために後で作られた嘘もかなり含まれています。
もともと歴史的にユダヤ人が多かったポーランドでの移送が一定の目処に達すると、今度は他の占領地からの移送も始まり、それまで実績のなかったハンガリーや、ユダヤ問題では消極的だったイタリア政府が連合国に降伏し、北部にナチス支持のもとサロ共和国が成立すると、イタリアからもユダヤ人が移送されるようになります。
しかし、大戦末期になると、物資も不足し、連合軍の侵攻と空襲もあって、絶滅収容所の機能は失われていきました。
劣悪な環境だった強制収容所でも状況は悪化し、食料不足もあって腸チフスなどによる病死者が相次ぎ、アンネ・フランクとその姉も亡くなっています。

収容所で作業する人間や、収容所所長、親衛隊関係者など、平凡で特に凶悪に見えない人物がどうして流れ作業のように殺人をする残酷なことを出来たのか、疑問がありました。その点については、戦後、逃亡の末に逮捕されたアドルフ・アイヒマンの心理問題として注目され、アメリカでは心理学者による一般市民を対象としたミルグラム実験と呼ばれる心理テストまで行われています(※2)。

シンドラーのリストのようなユダヤ人を労働力として使うことで救った話や、難民にビザを発給した杉原千畝とそれに協力した満洲や日本の外交官ら、ユダヤ難民の滞在を認めて逮捕されたスイスのザンクト・ガレン警察署長パウル・グリュニンガーなど、ユダヤ人保護や救援を行った人物は無名の市民も含め大勢いましたが、それらの活動は、戦後長いこと知られて来ませんでした。それら多くの人々は、現在、「諸国民の中の正義の人賞」で顕彰されています。

最終的にナチスによってどれだけのユダヤ人が殺害されたかは不明です。比較的よく言われているのが600万人説。
根強い反ユダヤ主義、イスラエルと対立するイスラム諸国や、イスラエルの政策に対する欧米の批判層、ドイツの保守層やネオナチ、ユダヤ陰謀論の好きなオカルティスト、その他様々な思想立場の人間が、ホロコーストに対して否定的な見解を示していますが、虐殺を認める説でも、犠牲者の数は数十万人から1100万人程度まで開きがあります。ナチスの公文書にないこと、関連する予算がないこと、数年でそれだけの人数を殺せるのか、その方法、膨大な数の遺体を処理できるのか、収容所施設の構造の疑問点、あるいは、戦前・戦後の全世界のユダヤ人の人口から疑問を呈する説もあります。
さらにこの数字には、ユダヤ人だけでなく、同じように収容所送りになったロマ人やスラブ人、捕虜、身体障害者、同性愛者、反政府活動家、無政府主義者、共産主義者なども含まれているとみられ、正確な数字はわかっていません。逆にユダヤ人だけが目立ってしまい、それら他の人々のことが注目されていない、という問題もあります。
また、ナチスの戦犯を裁いたニュルンベルク裁判(1945年11月20日〜1946年10月1日)が、近代の裁判制度・国際法・国際的慣習からみてかなり疑問のある(※3)戦勝国による恣意的に行われたもののため情報の信頼性が欠如してしまったことも影響しています。
この問題が微妙であるため、虐殺は誇張だと全否定する意見が出たり、それに対する言論封殺が起こるなど、冷静に判断する状況にない様相もあります。
ただ、大規模なユダヤ人への迫害が、終戦直後の国際情勢も絡んで、イスラエル建国へとつながり、現在まで続く中東問題になったのは言うまでもありません。

※1…ファシズムはイタリアやドイツだけにあったのではなく、当時、時期は前後するも、オーストリアのドルフース政権、ポーランドのピウスツキ政権、スペインのフランコ政権、ポルトガルのサラザール政権、ハンガリーのゲンベシュ政権、ギリシャのメタクサス政権、ブラジルのヴァルガス政権、アルゼンチンのウリブル政権やペロン政権などファシスト政権は各国で成立している。また、アメリカやイギリスにもファシスト政党は一定の勢力を誇り、フランスでも複数の団体があった。一部のファシスト政権や政党には戦後まで続いているのもある。これらの政権・政党は、おおむね反共では一致していたが、国情の違いから、反ユダヤ主義は強いものもあれば弱いものもあり、親ナチスもあれば、反ナチスもあった。

※2…ミルグラム実験は、アイヒマン裁判が始まった直後の1961年7月から始まった実験で、閉鎖環境で、権威のある人間に、責任を問わないことを条件に命令されると、他者の命を奪いかねないことでも実行してしまうかどうかを多数の市民を対象に実施したテスト。実際にはテストで危険な目に遭う被験者は苦痛を演じるサクラで、苦痛を与える装置も見せかけだけのものだったが、テスト対象者はそのことを知らず、しかも多くが「生命に危険なレベル」の命令にも従って実行している。公表後、実験の正確性や残酷性が問題となった。

※3…戦争犯罪を名目にして個人を裁くことや、法の不遡及・控訴が認められていない、弁護時間の偏りなど、法制度的に不備な裁判だった。裁判中、被告に対する暴力による自白強要や、証拠のない荒唐無稽な非道行為まで取り上げられている。また、ナチスと直接は関係のないカチンの森事件(ソ連軍によるポーランド兵虐殺事件)やイェドヴァブネ事件(ポーランド市民によるユダヤ人虐殺事件)もナチスの犯行と認定された。これらの多くは現代ではかなり訂正されるようになっている。

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2013年02月03日

隣国同士の関係:パレスチナ3―シオニズムとユダヤ人のパレスチナ帰還の始まり―

ナチスが虐殺を起こす以前から、ユダヤ人はしばしば虐殺の対象になっていました。
ドイツ、ポーランドからウクライナ、ロシアにかけて起こっていたポグロムです。
一般庶民が手に武器や農機具などを持って組織的にユダヤ人を殺害する出来事でした。
特にロシアは支配階級と被支配階級との間の中間的な階層が乏しく、支配体制に対する不満が高まっており、帝国政府はその解消のために、ユダヤ人を見せしめにする傾向があり、特に1881年から1884年には、国家規模で反ユダヤ運動が広がり、多くのユダヤ人が襲撃されて殺されます。
ユダヤ人らは、周辺諸国へと避難しますが、その行く先々でも問題になり、各地でさらなる迫害が連鎖するという状態になったわけです。
この殺戮は、シオニズム運動を生み出します。シオニズム運動は、ナータン・ビルンバウムらが始めたもので、古代に住んでいたユダヤの地に移り、ユダヤ人国家を建設することで、迫害のない社会を築こう、というものでした。

これは、ユダヤ人自身が、民族的自覚を持つようになってきたことに関係します。
もともとユダヤ人とは、ユダヤ教という宗教的・文化的な差異で区別がされている傾向が強かったわけですが、ドイツから東方にかけて住んでいたユダヤ人がドイツ語の影響を受けたイディッシュ語を使う独自の文化を生み出していたことや、ナポレオン以降、ヨーロッパ各地で国民国家思想が生まれ、民族の自覚が次々と生まれるようになったことも影響してか、ユダヤ人も自分たちを「民族」とみなし、国家を持とうという考えが生まれていきます。民族で言えば、キリスト教徒やイスラム教徒にもユダヤ民族の血を引いている人は大勢いますが、それはユダヤ人とは呼ばれていません。
ユダヤ人国家の建設の場所は、かつて居住していたユダヤの地、すなわち、ローマ帝国以降ではパレスチナとよばれる土地でした。
シオニズム運動がさらに盛んになったのは、社会体制と経済が近代化するに連れて、それまで宗教的な制約で金融業種に就くことが多かったユダヤ財閥の力が強まったことと、ドレフュス事件が直接的に影響しています。
1894年9月、先の普仏戦争(1870〜71年)でプロイセン(後のドイツ帝国)に負けたフランスで、軍内部の機密情報がドイツに漏洩しているという情報があり、その調査で、10月15日、ユダヤ人で参謀本部付きの砲兵大尉アルフレド・ドレフュスが逮捕されます。しかしなんの証拠も無いため、調査を続けていたところ、この事件を反ユダヤ系の新聞「自由言論」が報道して、ユダヤ人に手ぬるいと軍部を批判したため、軍部は急遽軍法会議を開き、ドレフュスを有罪にし、南米ギアナのディアブル島に流刑に処しました。その処置に疑問をいだいた彼の家族の調査から、軍情報部のピカール大佐は真犯人がフェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ少佐であることを突き止めますが、ドレフュスの「冤罪」発覚を恐れた軍上層部は、エステルアジの罪を問わなかったため、これを知ったエミール・ゾラは弾劾状を発表し、世論はユダヤ人擁護と反ユダヤで二分する事態に発展。しかし、反ユダヤのために国を売った男をかばった、ということが、「自由言論」を始め保守派や軍部の信頼を失墜させてしまい、一方では人権という考え方が広がる結果となります。しかも、機密情報自体がドレフュスの罪を重くするための捏造だという説まで出る始末(エステルアジは借金のためにドイツのスパイとなっていたといわれる)。
政府はドレフュスを有罪のまま、特赦にして釈放しましたが、ドレフュスは無実を主張し、1906年にようやく認められました。
この事件を取材した作家でジャーナリストでもあるテーオドール・ヘルツルは、1896年、『ユダヤ人国家』を出版して、ユダヤ人国家建設についての詳細な提案をします。これが西欧でのシオニズム運動の興隆につながっていきます。ヘルツルの指導のもと、ビルンバウムの協力で1897年8月、スイスのバーゼルにおいて最初のシオニスト会議が開かれます。

東欧のシオニズム運動の指導者だったビルンバウムは、イディッシュ語という独自の文化を持つ東方ユダヤ人こそを「民族」としてみなし、これに西方のユダヤ人も取り込もうと考え、1908年8月30日から9月4日まで、チェルノヴィッツでイディッシュ語世界会議を開催します。
しかし彼の運動は逆に、言語や文化の異なる東西のユダヤ人を分裂させるようになり、結果的には、ユダヤ人は復活させたヘブライ語を中心として、イスラエル建国へとつながっていきます。

第一次世界大戦が勃発すると、オスマン帝国の領地であった中東の重要性が高まり、イギリス政府は、アラブ人とユダヤ人にそれぞれ、独立国家への道を示唆するようになります。
アラブ人の独立を認めた1915年7月14日から1916年1月30日にかけての書簡によるフサイン・マクマホン協定、オスマン帝国領分割を定めた英仏露による1916年5月16日のサイクス・ピコ協定、ユダヤ人のパレスチナ帰還と国家建設を支援するというロスチャイルド宛の1917年11月2日のバルフォア宣言、終戦を経て、1919年1月3日のファイサル・ワイツマン合意でアラブとの友好協力の下ユダヤ人入植が決められ、パレスチナの英国統治とヒジャーズ王国の独立などを含める帝国領土の再編を決定した1920年8月10日のオスマン帝国との講和条約であるセーヴル条約が締結されました。
この一連の協定や政策を主導したイギリスは、自国の利益のためにどの勢力に対してもいい顔をして約束したため、支配権が重なりあう矛盾した結果になり、中東問題をややこしくする要因となりました。

こういう状況であったため、ユダヤ人の入植が増加し始めると、パレスチナでは、それまでは比較的中立関係にあったアラブとユダヤの間で対立が生じ、しばしば暴動が発生するようになります。
なかでも1929年8月15日、エルサレムにある「嘆きの壁」(※)で、ユダヤ人青年らの自衛団であるベタルのメンバーがデモを行い、その噂に尾ひれがついて翌日にはアラブ側のデモが起き、両者はエスカレート。8月23日に、アラブ人らがユダヤ人居住区を襲撃。多数のユダヤ人が虐殺・暴行を受け、出動したイギリス植民地軍によって今度はアラブ人が虐殺される「ヘブロン虐殺事件」に発展しました。
これらの衝突は、戦後のイスラエル建国以降顕著になる土地所有権の問題よりも、英国統治下で、農業主体のアラブ人と、金融・工業主体のユダヤ人との経済政策の違いによる利権問題も絡んでいました。
一方でシオニストらはアラブ人との間で民族と宗教の問題を不問にして共存共栄する道を模索して「イフード運動」を展開しました。ヨーロッパで迫害され続ける彼らが安寧の地を建設するため、この時点で先住民だったアラブ人との和平を検討していたわけです。その運動はアラブ側の有力者にも賛同を得られていました。
しかし、これらパレスチナでの様々な動きに影響することになるのが、ナチスのホロコーストと、その結果としてのイスラエルの建国でした。

嘆きの壁:ローマ帝国以降破壊され続けた古代イスラエル神殿の西壁の遺跡でユダヤ教徒の聖地。一方で、神殿跡に立つアル=アクサー・モスクと「岩のドーム」はイスラム教の聖地でもあるため、イスラム帝国支配下では、ユダヤ教徒は聖地巡礼を行うことが難しかった。

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2013年01月12日

隣国同士の関係:パレスチナ2―離散したユダヤ教徒迫害の時代とイスラム帝国の中東支配

古代イスラエルが滅び、二度に渡るユダヤの反乱が失敗に終わったことが、ユダヤ人のその後の歴史に影響しました。
ローマ帝国は、ユダヤの地をペリシテ人から取ったパレスチナと改め、ユダヤ教的なものを禁止していったことから、ユダヤ人の多くは各地へ離散します。
これをディアスポラといいますが、連れ去られたり、強制移住させられたユダヤ人がいた一方で、自ら各地へと広がっていった人々も大勢いました。その移住先の多くは地中海沿岸の諸都市だったとみられます。
パレスチナの地は、その後、アラビア半島中部に興ったイスラム教が勢力を伸ばし、イスラム帝国の支配下に置かれるようになります。
同地の人々はイスラム教へと改宗が進みますが、この中には、ユダヤ教から改宗した者が多く、また文化的にも徐々にアラブと同化して行きました。
これらの人々がいわゆる「パレスチナ人」で、ペリシテ人とは関係はなく、現在宗教的にイスラエル人とは区別されてはいますが、民族的にはユダヤ人と先祖は共通しており、違いはさほどありません。

のちに、キリスト教徒は、イスラム帝国の支配から聖地を奪還するという名目で、十字軍を起こしました。
争いに消極的なイスラム側に対し、キリスト教徒は意気盛んで、十字軍参加への大規模な運動も起こります。しかしそれは、数々の悲劇を招きました。
宗教的情熱と野望の集団では、戦略もいい加減で、物資もまともに用意されず、遠征先では略奪の数々を働き、暴行虐殺の限りを尽くしたと言います。その対象は、イスラム教徒だけでなくキリスト教徒の住む都市でも起こりました。ユダヤ教徒も虐殺されています。
それでもイスラム側の組織的抵抗が乏しく、十字軍はパレスチナの地を制圧し同地に十字軍国家を建設しますが、徐々にイスラム側に滅ぼされていき、1291年までに全て消滅します。第2回〜9回の主要十字軍は、領主らの思惑と商人らの暗躍で混乱、勝利を得ることもなくなり、ついにはパレスチナの地へ辿り着く前に崩壊してしまう始末。聖戦への参加を上手いこと誘われて連れて行かれた挙句、人買いの取引で奴隷となり帰郷することのなかった若者も多数出たといいます。ハーメルンの笛吹き男の話は少年十字軍に連れて行かれた子どもたちを指しているという説もあり、またモンゴル軍の東欧遠征軍には、十字軍で中東まで連れて行かれ帰ることができなくなったキリスト教徒が多数含まれていたとも言います。非道行為の数々は教会の権威を失墜させ、十字軍は行われなくなりました。結局パレスチナの地はイスラム教のアイユーブ朝、マムルーク王朝、オスマン帝国によって支配が続くことになります。

ディアスポラで地中海沿岸を中心に各地へと離散したユダヤ人でしたが、現在のユダヤ教の形は離散してから成立したとも言われ、移住先でも独自のコミュニティを維持し続けました。ユダヤ教の一派としてローマの支配に抵抗する要素の強かった初期キリスト教は、やがて、そのローマ帝国を取り込んでいき、一体化して世界宗教へと発展していきます。
キリスト教はユダヤ教徒を迫害するようになって行きます。イエスを殺したのはユダヤ人だ、というのが大きな要素になっていました。
ユダヤ教徒には公的な地位に就くことが認められず、土地の所有が禁止され、農業も、商業も、工業も制限されました。カトリック教徒などとの婚姻にも制限が加えられるようになります。
ユダヤ人が生きていくには、カトリック教会が卑しきものとみなしていた金融関係の仕事(※1)に就くしかありませんでした。皮肉なことに、このためにユダヤ人が大きな財力を持つようになり、それがさらなる憎悪を生むことになりました。
納税義務を課すことでユダヤ人を取り込んだ例もあります。神聖ローマ帝国などでは市民権を与えない一方で、特別な保護民という扱いをして居住を認めていました。イスラム教徒が支配していたイベリア半島では、人頭税によって居住権が認められています。中でも特に1264年9月8日、人口が減少していたポーランドのボレスワフ敬虔公によって発布された「ユダヤ人の自由に関する一般契約」(カリシュの法令)は、ユダヤ人の立場を法的に保護したはじめてのもので、商業や旅行の自由を認めただけでなく、キリスト教徒による一方的な暴力行為や犯罪に対して、ユダヤ人にも相応の司法的権利を認めていました。このため、ポーランドには多数のユダヤ人が移り住むようになります。この一帯の中小都市には「シュテットル」というコミュニティが多数誕生しました。

一方で、各地でユダヤ人への迫害が深刻になるのも、中世に入ってから。
ヨーロッパ全土をペスト禍が猛威を振るった時(※2)、ユダヤ教徒に感染者が少なかったことからも、彼らが毒物をばらまいた、などと言う噂が広がり、多数が殺されたといいます。ユダヤ教徒独自の清潔な文化と閉鎖的な社会が感染を抑えたという説もあります。ユダヤ人居住区ゲットーは、この頃、迫害と居住域の分離のために生まれました。
イベリア半島のイスラム勢力は、700年代初期のウマイヤ朝との戦いから始まったカトリックによるレコンキスタによって1492年にほぼ潰えて、その結果、異端審問が厳しくなり、ユダヤ人も追放されたり、改宗を余儀なくされました。
16世紀には宗教改革の運動がわき起こりますが、プロテスタントの間でもユダヤ人は差別の対象でしかなく、改革の代表者であるマルティン・ルターはユダヤ人を激しく攻撃しました。また、ユダヤ人の安住の地であったポーランド・リトアニア共和国(※3)が1795年10月24日、プロイセン、ロシア、ハプスブルク帝国によって分割されると、ユダヤ人は保護を求めてハプスブルク家に接近したために、特にロシア側で反感を買い、虐殺へと発展していきます。これはポグロムと呼ばれました。ドイツ・ポーランドから東方、ウクライナやロシアに至る広範囲で虐殺は繰り返し発生し、ナチスの政策とは別に、第二次世界大戦下でも起こっています。ポグロムは、のちのイスラエル建国の動機の一つとなりました。
ヨーロッパ中央部では、ナポレオン時代に、一時的に権利が認められるも、ナポレオン体制の短期の崩壊後、再び迫害の嵐にさらされます。しかし、ナポレオンによって生まれた領主制から国民国家への思想の変化、17世紀以降の宗教に基づかない啓蒙主義的な哲学の発達は、徐々にユダヤ人への権利を認める方向へと変化し、ユダヤ人自身も民族思想が生まれていくことになります。これは未だ続く迫害に対して、ユダヤ人国家の建設、すなわちシオニズム運動へと発展していくことになりました。

※1:カトリック教会下でも金融的な活動で力を持った騎士団などがありますが、金を貸して、利子を受け取る業種は、基本的に禁止されていました。そのためユダヤ教徒がこれを担っていました。なお現在のイスラム教もこの種の利子を取る金融活動を禁じています。
※2:中世ヨーロッパのペスト禍は、1346年から1350年の人口の3分の1から3分の2が死亡したという大惨禍と、1630年、1665年の地域的流行があります。人口の著しい減少は社会に大ダメージを与え、荘園制が崩壊し、人手のかからない羊の放牧文化が発達する原因となりました。イスラム帝国が衰退していくのも、中東やアフリカにまで広がったこのペストの影響があります。
※3:ポーランド・リトアニア共和国は、実際は王国ですが、近代法と貴族によって王権が制限され、立憲君主国となった国だったため、共和国と呼ばれています。ポーランド、バルト三国、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの一部にまたがる大国でした。

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