2013年05月06日

宇宙への道−宇宙開発初期の人々−

21世紀に入り、宇宙開発は大きくシフトし始めています。
これまで軍事目的を主眼に、国家が莫大な予算をかけて行なってきた宇宙計画は、民間企業にその舞台を変えつつあります。
あらたなベンチャー企業が次々と起こされ、ロケット開発の懸賞金が出され、民間宇宙旅行計画から、宇宙ホテル、月面開発、軌道エレベーターまで次々と計画や実験が行われています。
そんな宇宙開発は、実は最初期の段階も、民間によって推進されていました。国家がまだロケットや宇宙というものに価値を見出しておらず、いわばマニアの分野だったからです。宇宙開発史では、そういった民間研究者の存在無くしては語れないと言えます。
そんな宇宙開発の初期に関わった人々の動きを、時代順に追ってみてみます。

1857年9月17日、帝政ロシアに、コンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキーが誕生。のちに帝政ロシアおよびソビエト連邦の科学者、ロケット研究者となった人物で、数学教師でもあり、現代ロケット工学の草分け的存在でした。
1865年、ジュール・ヴェルヌのSF小説の古典『月世界旅行』が発刊されます。アメリカ南北戦争直後を舞台に、元砲術士官らが集まり、地面に埋めた超巨大な大砲で砲弾型宇宙船を打ち上げ、月へ人を送ろうとする話です。必ずしも科学技術小説ではなく、風刺小説という側面もあると言われていますが、後に書かれたウェルズの『宇宙戦争』とともに、様々な小説や映画に影響を与え、のちのロケット研究者になった若者らにも影響を与えた作品でした。
1882年10月5日、アメリカでロバート・ゴダード生誕。ツィオルコフスキーと並ぶ、ロケット研究者の草分けです。
1894年6月25日、ヘルマン・オーベルト生誕。ドイツで宇宙旅行協会を立ち上げたロケット愛好家。後述するように、この協会がロケットの発展に大きく関わることになります。
1898年、H・G・ウェルズのSF小説の古典『宇宙戦争』が発刊されます。イギリスを舞台に、突如空から落ちてきた火星人が、侵略攻撃を始める物語。単なる荒唐無稽な空想小説ではなく、人間同士の醜い欲望や争いなども描き、風刺的な要素も強い作品。タコのような火星人のイメージや、ロボット兵器の元祖とも言えるトライポッド、思わぬ理由で火星人が滅びてしまうオチまで、後の様々な小説や映画に影響を与えました。またロバート・ゴダードはこの時16歳で本作を読み影響を大きく受けたといわれています。
1907年1月12日、セルゲイ・パーヴロヴィチ・コロリョフ生誕。ソ連の航空技術者、ロケット技術者として知られるようになる人物です。
1912年3月23日、ヴェルンヘア・マグヌス・マクシミリアン・フォン・ブラウン生誕。一般にはヴェルナー・フォン・ブラウンで有名なロケット研究者。ドイツの貴族で、アポロ計画に深く関わった人物。
1914年6月30日、ウラジーミル・チェロメイ生誕。ソ連のロケット研究者で、弾道ミサイルの研究を進めた人物。現代のロシアの宇宙船に大きな影響を残しました。
1917年1月18日、ヴァシーリー・ミシン生誕。この人物もソ連のロケット開発に貢献した人物。
1920年、ロバート・ゴダードは論文で『高々度に達する方法』を発表します。しかし、ニューヨーク・タイムズは社説で、「何もない」真空中をロケットが飛行するのは不可能だと誰でも知っている、と痛烈に批判しました。同紙は49年後のアポロ月着陸の直前に、この社説の「過ちを後悔する」と表明しています。
1923年6月、ヘルマン・オーベルトの論文を元に『惑星空間へのロケット』が出版されドイツで評判となります。ロケット愛好家が生まれ、やがてこれが本格的な研究へとつながっていきます。
1926年3月16日、ロバート・ゴダードが、マサチューセッツ州オーバーンの農場で初めての液体燃料ロケット「ネル」の発射実験を行い成功しました。しかし、危険な実験だと騒ぎになり、新聞記者らの間違った記事や、「専門家」らによる「科学的」批判、国家や軍が彼の考えを理解できなかったことなどから、一部に彼を支援する動きがあったのみで、その功績は彼の死まで評価されませんでした。当時はアメリカよりも、ドイツや、新興勢力のソビエトのほうがロケット研究に注目していたのです。
1927年6月5日、ドイツのヨハネス・ヴィンクラーらロケット愛好者、研究者らが「宇宙旅行協会(VfR)」を設立。彼らの目的は月などへ行くことのできる宇宙飛行可能なロケットの研究。ヴァイマール共和国軍にも接近し、ベルリンに実験場を借りることが出来ました。
1928年、フリッツ・ラングによる映画『月世界の女』が公開。この作品ではロケット研究者らが関わっています。またこういう映画が人気を博したところに、当時のドイツにはロケット開発の社会的土壌があったことが伺わせます。直後に政権をとるナチスの政策だけではなかったわけです。
1931年1月21日には、宇宙旅行協会が液体ロケットの打ち上げに成功。高度は約90m。3月14日には、ヨハネス・ヴィンクラーらがデッサウでロケットHW−Iの打ち上げ実験を行い、1932年10月6日にもHW−IIの公開打ち上げを行っていますが、どちらも失敗に終わっています。しかし政府関係者や軍部の注目を得るようになりました。彼らは多くの実験を行っています。その若手メンバーだったフォン・ブラウンは、同年からドイツ陸軍と協力するようになります。ロケットは第二次大戦終結ころまでは、大砲の延長線上のイメージであったため、基本的には陸軍砲兵隊の担当でした。
1933年9月30日、宇宙旅行協会のロケット発射場「ベルリンロケット発射場」が閉鎖。水道料金の未払いが大きな理由です。また軍の協力を拒絶したことなども影響し、翌年には、協会も解散しています。しかし、メンバーの多くはその後、軍部のロケット開発に参加することになりました。
1934年12月、宇宙旅行協会のメンバーだったフォン・ブラウンらはA2ロケットの発射実験に成功します。このA2の大型化した後継ロケットが、有名なV2です。
1935年9月19日、ソ連のロケット研究者ツィオルコフスキーが78歳で死去。国葬が行われました。彼は運搬装置のロケットだけでなく、人工衛星や軌道エレベーターの構想もしていたとされ先進的な人物でした。そのため「ロケット工学の父」と呼ばれています。またロケットや宇宙開発への啓蒙のためSF作家としても活動した人物でした。ロケット開発には好意的だったソビエトですが、やがてスターリン政権下での大粛清が始まると、ロケット研究者も巻き込まれていきます。これはロケットがどうというわけではなく、あらゆる職場で政治的・思想的な弾圧が吹き荒れたためでした。
1938年7月22日、ソビエトのジェット推力研究所の所長だったコロリョフが冤罪により逮捕されます。彼は拷問の末に「自白」。シベリアへ流刑となり、過酷な環境で身体を壊すなど悲惨な境遇に遭います。関係者の尽力で刑期は緩和され、1944年には釈放されて、まもなく名誉回復されていますが、彼の逮捕は、友人だったロケット研究者ヴァレンティン・グルシュコが逮捕され尋問を受けた際にコロリョフの名を出したことが原因だとされています。両者とも戦後のミサイル開発で重要な地位にいましたが、このことと技術方針でも対立して死ぬまで不和が続き、フルシチョフらの仲介でも改善せず、ソ連の大型ミサイル・ロケット研究に影響したといわれています。
1942年10月3日、ナチスドイツはA4ロケットの発射実験に成功しました。これが史上最初の宇宙に出た飛行物体であり、成功した初の弾道ミサイルでもありました。
1944年3月、ドイツでもフォン・ブラウンが、ゲシュタポに拘留され連行されました。彼はもともと、ミサイル兵器より宇宙旅行が可能なロケット開発の夢を抱いていました。ミサイル兵器V2およびその後継ミサイル兵器の開発担当だったにもかかわらず、その夢を捨てずこだわり続けていたことが親衛隊などの反感を買い、国家反逆罪に問われたと言われています。関係者がV2開発の功績を持ち出し、ヒトラーまでが仲裁したため釈放されますが、他国を大きく引き離すほどのロケット・ミサイル開発に成功したナチスでさえ、ロケット開発の意義をなかなか認めない時代だったことを象徴しています。
1944年9月2日以降、V2による、フランス、イギリス、ベルギーへの攻撃が盛んに行われました。
この頃、ロケットは、まだ宇宙へ行くという目的よりも、ミサイル兵器、あるいは軍用機のロケット推進装置として研究されていました。日本でも小規模ながらロケット攻撃機の研究が行われています。特攻兵器となった桜花や十九試局地戦闘機秋水(陸軍ではキ−200)などはロケット推進でした。
1945年5月、ナチスドイツ崩壊。その直前から、フォン・ブラウンらは、亡命先を検討するようになります。先進的な技術を持つ彼らの価値にようやく気づき始めた連合各国は、ひそかに技術者を確保し連れ去る計画を立て始めます。ソ連のロケット研究者らはかなり早い段階でナチスのロケット基地を視察していました。
1945年6月20日、アメリカのハル国務長官が、フォン・ブラウンらドイツのロケット技術者のアメリカ移送を認めます。ペーパークリップ作戦と呼ばれたこの移送でアメリカはロケットと弾道ミサイルの開発を進めることになります。しかし、自国の先進的研究者だったゴダードの評価は遅れ、彼は同年8月10日に死去。死後に認められた膨大な特許は、のちに価値を理解した政府によって買い取られました。
1957年10月4日、ツィオルコフスキー生誕100年を記念して、ソビエトは人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功します。これはアメリカにとって、共産主義に対抗する自由勢力の威信を傷つけるだけにとどまらず、宇宙からの監視に加え、大陸間弾道ミサイル技術にもつながる大きな脅威でした。
ドイツやソ連に比べてロケット技術に対する評価が遅れたアメリカは、研究組織もバラバラで、大陸間弾道ミサイルでも、宇宙ロケットの開発でも、ソ連に遅れを取り、1957年12月6日に大々的に宣伝した初の衛星搭載ロケット「ヴァンガード」も発射に失敗して大恥をかく、という体たらくを経て、ようやく統一された本格的な開発に乗り出すことになります。
1958年7月29日、アメリカの国家航空宇宙諮問委員会(NACA)を解消して、アメリカ航空宇宙局(NASA)が設立されます。
1959年5月1日、メリーランド州グリーンベルトにNASAの衛星の管制を担当するゴダード宇宙飛行センターが設立されます。地球軌道上の観測衛星などを対象とした施設。先駆者だったロバート・ゴダードの評価が高まり、その名から命名されました。
1966年1月14日、セルゲイ・パーヴロヴィチ・コロリョフ死去。彼はアメリカで活躍したフォン・ブラウンと並ぶ、ソ連を代表するロケット研究者でしたが、ソ連の大陸間弾道ミサイルの開発を行ったため、その存在が明らかになったのは死後になってからでした。開発に携わった大陸間弾道ミサイルR−7(セミョールカ)は、発射に時間がかかる欠点から兵器としては短命に終わりましたが、宇宙ロケットに転用され、その派生形が次々と開発され、現在も使用される最も普及したロケットの一つです。
1977年6月16日、フォン・ブラウンが病気で死去。宇宙旅行協会を離れてナチスに協力し、戦後は一転してアメリカに鞍替えし、その態度が今日まで様々な批判にさらされてきましたが、彼自身は月を目指すロケット開発に情熱を燃やし続けた人物でした。そのためにナチスも、アメリカも利用したところがあるでしょう。結果的に「晩年」となってしまったアポロ以降は、独自の宇宙開発プランのため、NASAから離れ、民間企業で活動し米国宇宙協会(NSS)の設立に奔走していました。
1984年12月8日、ウラジーミル・チェロメイ死去。ソ連の大陸間弾道ミサイルや有人月飛行計画を推奨し、後に、宇宙ステーション建設や補給に使われているプロトンロケットの技術開発にあたった人物です。
1989年10月10日、ヴァレンティン・グルシュコ死去。死ぬまで対立したコロリョフの第1設計局(エネルギア。現S.P.コロリョフ ロケット&スペース コーポレーション エネルギア)を受け継ぎ、宇宙ステーションやソ連版スペースシャトル輸送ロケットエネルギア開発にあたった人物でした。
1989年12月28日、ドイツの初期のロケット工学研究者ヘルマン・オーベルト死去。世界のロケット開発に貢献したという意味では、そのきっかけを作ったような人物で、非常に長生きだった人物です。大きく進んだロケット技術をどう見ていたでしょうか。
2001年10月10日、ヴァシーリー・ミシン死去。ソ連のロケット研究者、教育者。コロリョフの右腕で後継者となった人物。超大型ロケットN−1による月有人飛行を計画するも失敗に終わりました。

ロケット技術は、民間の物好きな人たちから始まり、彼らを国家が雇い、兵器開発に当たらせたわけですが、ナチスや米ソのミサイル開発にあたった彼らは、一方で有人宇宙飛行のためのロケット開発の夢も捨てていませんでした。セミョールカやプロトン、サターン、スペースシャトルなどのロケットは、いずれも軍事と切り離せない一方で、科学や探査、宇宙ステーションといった方面でも大いに利用され、今の民間宇宙開発の基礎を築いたわけです。そこには政治家の思惑だけでなく、技術者の主張も多分にあったことでしょう。

☆この内容は総合年表HP(http://www.sogonenpyo.jpn.org/)に追加されます。
ラベル:世界史 宇宙
posted by あお at 16:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 宇宙への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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