2013年09月28日

高層建築史1 超高層ビルディング

21世紀に入り、従来よりもはるかに高い高層建築の計画が世界各地で動き始めています。かつては通信塔以外の超高層建築のほとんどがアメリカの摩天楼でしたが、近年は経済力を付けた国が増え、長期にわたって続いた世界的な停滞感・消極的な社会情勢からの脱却の動きも出てきたため、各国で建設されるようになりました。
構想レベルまで含めると、高さ1km、あるいは高さ1マイル (1,600 m)を超える超高層ビルの建設プロジェクトの話も出ています。

近代高層ビルとして、世界で最初と称されるのが、エクイタブル生命保険ビル(ニューヨーク、高さ40m、1870年5月1日竣工、1912年1月9日火災で崩壊)です。また鉄骨を入れた最初の高層ビルは、ホームインシュアランスビル(シカゴ、高さ42m、1884年竣工、1931年に解体)とも言われています。この頃、同規模のビルはすでに複数建てられていました。
1871年10月にシカゴ大火があり、市街地の大半を失い、その復興過程でオフィスビルの需要が高まります。高層建築が新たな潮流となり、その中のひとつが、オーディトリアムビル(シカゴ、塔まで入れて106m、1889年竣工)でした。ニューヨークでも100m級のニューヨークワールドビル(ニューヨーク、106.4m、1890年完成、1955年解体)、マンハッタン生命保険ビル(ニューヨーク、高さ106m、1894年竣工、1964年解体)、現在の超高層オフィスビルのはしりとも言えるパークロウビル(ニューヨーク、119m、29階、1899年7月20日竣工、現存)、オフィスビルではあるがルネサンス様式で高層ビルとは言いがたいフィラデルフィア市庁舎の塔がこの記録を塗り替え(フィラデルフィア、167 m、1901竣工、現存)、それを超えたのがシンガービル(ニューヨーク、186.57m、1908年竣工、1968年解体。シンガーミシンの本社ビル)、さらに200m級の時計塔の付いたメトロポリタン生命保険会社タワー(ニューヨーク、213.36m、1909年竣工、現存)と一気に高くなっていき、ウールワースビル(ニューヨーク、241.4m、1913年完成、現存)に至ります。

このウールワースビルは、それまでのビルに多く見られた時計塔のような部分高層ではなく、建物全体がゴシック・リバイバル様式(※1)の摩天楼になっています。そのためデザインはヨーロッパに多く見られる大聖堂にも似ています。この頃マンハッタン島は現在のような高層ビルのスカイラインの原型が出来上がっていきますが、しばらくはウールワースビルが世界一の座を維持しました。その後、世界一競争が始まり、バンク・オブ・マンハッタン・トラスト・ビル(40ウォール・ストリート、現トランプビル、ニューヨーク、283m、70階、1930年4月完成)、アールデコ調(※2)の独特の曲線デザインで知られるクライスラービルが続けて完成します(ニューヨーク、塔頂部320m、1930年5月28日に完成)。このビルは当初283mで完成予定でしたが、工事中に追いぬかれたため、尖塔部分を追加した経緯があります。エッフェル塔(当時312m)よりも高かったため、ビル以外も含めて世界一の建築物となりました。

ところがこれもすぐに追いぬかれます。抜いたのが、あのエンパイアステートビル(ニューヨーク、塔頂部443.2m、1931年5月1日完成)。102階建てで、その後42年間世界一の座にあり、映画でキングコングがよじ登り、1945年7月28日にはB-25爆撃機が衝突(※3)したこともあるビルです。世界一競争のために作られ、不況で長いこと空き室だらけの「エンプティー・ステート・ビルディング」でしたが、今は観光名所の一つ。これを抜いたのが、1973年4月4日に落成した双子ビル、ワールド・トレード・センタービル(ニューヨーク、最頂部(526.3m、110階)です。
このビルは、モダニズム(※4)の無機質な外観を極めたようなデザインですが、ニューヨークのスカイラインに並ぶ2つのビルは象徴的なものとなり、映画などでの遠景シーンには必ず登場し、新名所となりました。中に柱を設けず、外壁に支柱を並べた構造はオフィス面積を広げ、超高層ビルの難敵である風圧に対しても有効でしたが、2001年9月11日の同時多発テロで旅客機が突入して支柱が破壊され、発生した火災の高熱で溶解、自重を支えきれなくなって2棟ともひしゃげるように崩壊し、膨大な犠牲者と数多くの美術品を損失しました。跡地にはワンワールドトレードセンタービル(541.3m、2014年完成予定)など複数の超高層ビルを建設中。

双子のワールドトレードセンターを抜いて世界一になったのが、シアーズタワーで(シカゴ、現ウィリス・タワー、527.3m、1973年5月3日完成)、ほぼ同時期の完成、高さもほぼ同じですが、ワールド・トレード・センタービルの方が有名でした。
シアーズタワーまで、すべてアメリカで、そのほとんどがニューヨークかシカゴでした。
1994年4月、マレーシアのクアラルンプールに、双子の超高層ビル、ペトロナスツインタワーが完成(高さ452m)。アンテナを除く本体の高さでシアーズタワー(本体442.3 m)を抜き世界一となります。20世紀で最も本体が高い超高層ビルでした。デザインもイスラムのミナレット風な独特のもの。以降、アメリカ以外の国々で次々と建設が始まり、デザインも多種多様になります。

2004年には、初めて500mを超えた、台湾・台北市の台北101(最頂部509.2m、本体449.2m)が完成。建設中に大地震が起こり、クレーンが落下して死者5人を出しますが、ビルに影響はありませんでした。逆台形の「節」を多数積み重ねたようなデザインです。
2007年7月、高さ非公開で建設中のUAE(アラブ首長国連邦)のブルジュ・ハリファが高さで世界一に達します(ドバイ、尖塔頂部828m、本体636m、160階。2010年1月4日開業)。完成時に金融危機で資金に苦しみ、ビルも債権付きとなったため、連邦の盟主で石油大国のアブダビ首長国の支援を受け、同国ハリファ首長の名を冠することになりました。
トップがダントツに高いビルとなったため、世界一更新は、計画中のハイパービルディングの実現を待つことになるかもしれませんが(※5)、2位以下の300〜500mくらいの超高層ビルの建築はアジア・中東、そしてこれまで高層ビルの少なかったヨーロッパでも加速度的に増えています。

現在、具体的に計画中のものとして、クウェートのブルジュ・ムバラク・アル=カビール(マディナ・アル=ハリール、1001m、200階)、バーレーンのムルジャン・タワー(マナーマ、1022m)、UAEのナキール・タワー(ドバイ、1400m?、228階?)、サウジアラビアのキングダム・タワー(ジッダ、1610m?)、UAEのドバイ・シティ・タワー(ドバイ、2400m、400階)があります。ただし現在クウェートで建設中の都市マディナ・アル=ハリールに作られる予定のブルジュ・ムバラク・アル=カビールなどはかなり具体的ですが、キングダムタワーやナキール・タワーなどは、計画がコロコロ変更されていて、どうなるかわかりません。

日本の超高層ビル、歴史上の高層建築物、および、電波塔・通信塔については別の項で取り上げる予定です。

※1:ゴシック・リバイバル様式とは、18世紀後半から19世紀にかけて流行した、中世に教会建築として盛んだったゴシック様式を近代風にアレンジした建築様式。教会や駅舎などに多いがアメリカでは高層ビルのデザインにもなっている。
※2:アールデコ様式とは、1925年のパリ万博から盛んになったデザイン様式。曲線や幾何学的装飾が多用されている。日本の同時代の建築物にも流行した。しかし流行は短期間で終わっている。
※3:衝撃でエレベーターが300mも落下したが、乗っていたエレベータガールは重症を負うも助かった。
※4:モダニズム様式とは、装飾などを排し、合理性や機能だけを追求したようなデザイン。それまでの建築物に見られた彫刻や曲線的デザインの乏しい、直方体で窓が整然と並んだような現代のビルがモダニズム。1960年代以降、モダニズムに反発したポストモダンが唱えられるようになるも、定義が曖昧で、むしろ現代では何でもありの様相になってきている。
※5:中国湖南省長沙市で超高層ビル「天空都市」(838m、202階)の着工式が2013年7月22日に行われる。本体を7ヶ月、全体で10ヶ月で完成させるという話で疑問視された上に、着工式の直後に当局から中止命令が出て工事は始まる段階で中断している。ただ準備は進んでいる模様。

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2013年09月21日

悪人列伝−独裁者アドルフ・ヒトラー

アドルフ・ヒトラー
歴史上、悪人と呼ばれたものの多くは、敵対者や後世からの悪評という「作られた」面もあります。しかし時代的に近い人物においては、その行動が直接的に、悪に結び付けられることもあります。ヒトラーは、まだ歴史上というには、生々しさの残る人物といえます。

ヒトラーは、ヨーロッパ、特にドイツでは、公的にはタブーな存在となっており、極力触れないようにしています。ヒトラーの自著は発禁。ハーケンクロイツすら公的に使用すると処罰されます(※1)。
一方で、その影響が乏しい、アメリカや日本では、ヒトラーはしばしば題材、ネタ、象徴的なものとして扱われています。ヒトラーも見たという同時代のチャップリンの『独裁者』などは別格としても、小説やマンガで、第二次世界大戦でドイツが勝利したら、逆に、ヒトラーがアメリカへ移住していたら(たいてい画家や小説家になっている)、といった歴史改変ものや、ヒトラーの「クローン」ネタ、ヒトラー的な外見を独裁者の象徴として見立てるといった手法がしばしば見られます(最近アメリカの道路沿いのやかんの看板が似ているとして騒ぎになりました)。
最近はドイツでも、ヒトラーが現代にタイムスリップして「コメディアン」として人気ものになる社会風刺小説『Er ist wieder da』がベストセラーになっています。
一方で、国粋主義、その実行力とカリスマ性からヒトラーを崇拝する動きもあり、また反ユダヤ主義の象徴として、アラブ諸国を中心にヒトラー評価は根強くあります。

ヒトラーを極悪非道な独裁者として断定するのは簡単ですが、生まれ落ちた瞬間からそうだったわけではありません。なぜ一人の画家志望だった若者が、狂気の独裁者になったのか、その精神面への影響と変化、それを支持した市民の行動、時代背景や思想的流行などもふまえて、未来の歴史を考える時に、研究課題とするべきでしょう。

主な経歴
1889年4月20日、オーストリアのブラウナウで、税関吏アロイス・ヒトラーと妻クララの間に生まれます(※2)。
息子に将来を期待した父親との確執が大きく、父に対する反発が、大ドイツ主義への傾倒につながったという説もあります。1903年、父アロイスが病没し、その後、学校も2度中退。1907年、芸術家を志してウィーン美術アカデミーを受験するも失敗。課題の未提出が理由でしたが、この頃のウィーンは「世紀末芸術」と称される、退廃、エロチシズム、グロテスクなどが評価され、個性の乏しいヒトラーの作品は評価が低かったとされます(※3)。ヒトラーは建築物にも興味を示しますが、学歴の問題から建築家への道を断念してます(※4)。この年には母も病死。絵葉書売りで収入を得ながら、図書館に通って独学で知識を得てますが、学歴の悪さは終生コンプレックスだったようです。
第一次世界大戦が勃発すると、彼はバイエルン王国の志願兵として出兵。伝令兵として二度勲章を得ますが出世はせず、ソンムの戦いで負傷。更に化学兵器マスタードガスの影響で一時失明し終戦を迎えました。視力は回復するも、敗戦の衝撃は大きく、「内なる敵」への不満を持つようになります。1919年9月12日、ドイツ労働者党(党首はドレスクラー)に加盟。党内で影響力を伸ばし、党名をドイツ国家社会主義労働者党に変更(※5)。ムッソリーニのファシスト党に憧れ、ローマ進軍を真似て1923年11月8日ミュンヘン一揆を起こすも失敗。しかし法廷で自らの主張を展開して多くの支持者を獲得しました。刑務所での待遇は良く、『我が闘争』を執筆。1924年12月20日には釈放されます。1926年2月14日、党内左派勢力をバンベルク幹部会議で抑えこみ、ヒトラー体制が確立しました。
1928年5月20日の国会議員選挙に候補者を出すも、景気の好転が影響して12人の当選にとどまります。ヒトラーがエヴァ・ブラウンと知り合ったのはこの頃。
翌1929年、世界恐慌により政府への批判がナチスへの支持拡大に。1930年の選挙では第二党に躍進しました。
1931年9月18日、結婚も考えるほど溺愛していた姪のゲリ・ラウバル(異母姉アンゲラの娘)が自殺。彼女の行動を抑制していたヒトラーとの対立も原因と見られ、そのショックは大きかったといいます。翌年大統領選に出馬。英雄ヒンデンブルグ大統領に迫る勢いを見せたヒトラーは、知名度を飛躍させます。
7月の総選挙でナチスは第一党に躍進。反共保守派の危機感に乗り、ヒンデンブルグや、パーペン前首相の支持も得て1933年1月30日にヒトラー内閣が発足しました。2月1日に議会を解散。2月27日夜に起こった国会議事堂放火事件を機に共産主義者の弾圧を開始。3月5日の総選挙では、単独過半数にはならなかったものの、3月24日には国家人民党と中央党の協力を得て全権委任法を可決させ、議会と大統領の権力を奪います。7月14日にはナチ党以外の政党を禁止しました。
1934年6月30日の「長いナイフの夜」事件で最大軍事組織「突撃隊」のレーム派を一掃。同年8月2日、ヒンデンブルク大統領が死去。ヒトラーは総統として最高指導者となりました。彼は貴族階級より、庶民側に立つ姿勢を見せ、私生活は質素、社会事業を積極的に進め、失業率を大幅に下げ、市民の支持を得られる政策を進めましたが、一方ではユダヤ市民への迫害・追放を強めます。
1935年3月16日、ドイツ再軍備宣言。1936年3月7日には非武装地帯ラインラントへの進駐という賭けに出ました。国際社会の批判が乏しかったことに自信を得たヒトラーは、以後、拡張政策を推進することになります。1936年8月1日から8月16日までベルリン・オリンピックを開催。今も続く聖火リレーのイベントを行い、国威発揚に成功。同大会の映画を撮ったレニ・リーフェンシュタール、党大会で「光の列柱」の演出をした建築家アルベルト・シュペーア、メディアを使った宣伝を駆使したヨーゼフ・ゲッベルスなど、以後の独裁者の見本となるような政治的演出のできる優れた人材を集めます。芸術家を目指して挫折したヒトラーならではの目の付け方でした。
1938年1月26日に国防相ブロンベルク元帥を、1月28日に陸軍総司令官フリッチュ上級大将を、ともにスキャンダルを理由に罷免し、独立志向のあった軍も完全掌握。
同年3月13日、故郷オーストリアを合併。9月29日、イギリス首相チェンバレン、フランス首相ダラディエ、イタリア首相ムッソリーニとミュンヘン会談をおこない、チェコスロバキアのズデーテン地方の割譲に成功。さらに同国のハーハ大統領と1939年3月15日に会談してチェコを「ベーメン・メーレン保護領」として吸収、分離したスロバキア共和国を傀儡国家として事実上併合します。3月23日にはリトアニア政府からメーメル地方を割譲。英仏は動かないとにらみ、次の目標をポーランド併合と定めたヒトラーは、敵国ソ連と交渉して、8月23日に独ソ不可侵条約を結び(※6)、9月1日にポーランドに侵攻。しかし英仏はついにナチスとの対決を決定して、第二次世界大戦が勃発しました。
航空機と戦車を使った電撃戦により1ヶ月半でポーランドは滅亡。1940年4月9日には、デンマーク、ノルウェーへ侵攻。2ヶ月で両国を占領。5月10日、フランスへの侵攻作戦を開始。第一次大戦で塹壕戦を経験したヒトラーは、侵攻作戦を大きく変えて、主要侵攻ルートのベルギーではなく、アルデンヌの森林地帯を戦車中心の機甲師団で突破する戦術を取り、フランス北部を一気に制圧しました。6月21日、フランスが降伏。フランスは北部の占領地域と、南部のペタン政権に分割されます。その後、イギリス本土侵攻作戦は、航空機の損害の大きさから中止に。それでも、1940年10月28日から翌1941年5月29日にかけてバルカン半島を制圧し、9月27日には日独伊三国同盟も締結。日本人に対しては、蔑視、おそれ、称賛と複雑な感情を持っていたようです。
そして、彼の栄光が失われる独ソ戦が始まります。
1941年6月22日、バルバロッサ作戦によりドイツ軍はソ連に侵攻。当初、スターリンの粛清で弱体化していたソ連に対し、快進撃を続けたことで楽観視していたヒトラーですが、激しい抵抗と焦土戦術、強力なT-34戦車、泥濘と悪路に阻まれ、モスクワ目前で冬の到来とともに補給もままならなくなり、各地で大きな損害を出します。
翌1942年、ドイツ軍はレニングラードを包囲したまま、南方資源地帯カフカース方面進出のブラウ作戦を発動、6月28日からはその途上のスターリングラード攻略に乗り出しますが、これも予想以上の長期化。
ソ連側のゲリラ的な抵抗、現地司令官とヒトラーとの意見対立などで進まず、再び冬が到来。ソ連軍はドイツ軍を包囲。1943年1月31日、現地軍司令部は降伏し、参加将兵のほとんどが死亡しました。1944年1月にはレニングラードからも撤退。ドイツ軍は兵力を大幅に失い、以後、縮小に転じます。
うまく行かなくなると、陰に籠るのが独裁政権の特徴。ドイツ国内の統制は強まり、ユダヤ人収容所も絶滅収容所へと変わり、ヒトラーに失望した高級将校による暗殺計画が相次ぎ、学生の反戦運動も始まります。作戦に参加したイタリア軍の損失も大きく、ムッソリーニ政権の基盤も揺らぎました。
1944年7月20日のシュタウフェンベルク大佐によるヒトラー暗殺未遂事件は、会議中の爆弾の炸裂により列席者が死傷したものの、ヒトラーは軽症で済み、奇跡のように宣伝されました。7000人以上も摘発され、200人以上が処刑されましたが、ヒトラーもまた、人間不信がひどくなったといいます。
1943年7月25日には、ムッソリーニの失脚とバドリオ政権の連合国への寝返り、1944年以降の連合軍進出によってドイツは孤立を深めていきます。
1945年1月には、ナチスはライン川とオーデル川に挟まれたドイツ本土と周辺部だけを支配するまでに縮小していました。3月15日のブダペスト奪還作戦失敗で、ドイツ軍の組織的作戦は終わります。
ヒトラーはもはやドイツに未来はないとみなし、3月19日、国内焦土作戦を命令。ついに自らの国民までも見捨てようとしました。シュペーアらの反対で実行されしませんでしたが、ヒトラーはすでに病状も悪化し、歩行もままならず、指導者としての意欲も失われていたようです。
4月23日、降伏交渉を検討していたゲーリング国家元帥の逮捕命令、4月28日の親衛隊指導者ヒムラーの連合国との和平交渉の情報など、政権も崩壊寸前となり、ヒトラーは29日、大統領職にカール・デーニッツ、首相にヨーゼフ・ゲッベルス、外相にザイス=インクヴァルト、ナチ党担当にマルティン・ボルマンを指名し、日陰の存在だった愛人エヴァ・ブラウンと結婚式を挙げ、30日、官邸地下壕でエヴァとともに自殺し、遺体は焼却されました。

ヒトラーの思想・行動は、父や一族との不和、母の死、芸術家になれなかったこと、憧れたドイツ帝国の敗北、といった彼にとっての失望・挫折を、当時ヨーロッパに根強く広がっていた反ユダヤ主義などと結びつけて転嫁し、さらに得意な弁舌や政治構想力に代えて解消しようと図った結果かもしれません。ヒトラーもまた、生き方に悩んだ一人の弱い人間だったのでしょうが、その結果、多くの人が犠牲になったわけです。どこかの段階で彼を導く人がいれば、あるいは、彼がもっと別の生き方や得意分野に気づけば、彼自身の歴史は変わったかもしれません。が、結局は、似たような別の独裁者が誕生し、同じことを繰り返したでしょう。当時、似たような思想の政治家は他にも大勢おり、なにより「ヒトラー」と「ナチス」に力を与えたのは、この時代の市民だったわけですから。

※1:卍(まんじ):日本や台湾などでは寺院を表す記号でもあるまんじ。ヒンズー教でも使われています(スワスチカ)。向きが逆のハーケンクロイツと誤解したヨーロッパ人の批判を受けて、日本でも表示をやめようという論議もたまに出ますが、卍と起源が同じハーケンクロイツ自体は、古くからアジア・ヨーロッパに伝わるシンボルや文様の一つで、幸運を意味し、ナチズムとは本来関係ありません。
※2:ヒトラーにはユダヤ人説もあります。ヒトラーの父親アロイスの父親が不明であることも要因のひとつ。
※3:ヒトラーの絵画作品は今でも時々オークションに掛けられることがあります。ディズニーのキャラクターを描いたものもあるとか。
※4:のちに独裁者となった彼は、退廃芸術展を開いて、これらの作品を「頭がおかしい人間の作品」などと公開で誹謗しました。一方でベルリンに古典主義的な巨大建築物を並べた「世界の首都ゲルマニア計画」の建設にも意欲を示しています。
※5:ナチスは、もともと、ドイツ国家社会主義労働者党に対する蔑称。
※6:ドイツと「防共協定」を結んでいた日本は、ドイツとソ連との不可侵条約に驚愕し、密かに進めていた日独同盟の交渉を中止。平沼騏一郎首相は8月28日に「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」と声明を発表して総辞職しています。

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2013年05月06日

宇宙への道−宇宙開発初期の人々−

21世紀に入り、宇宙開発は大きくシフトし始めています。
これまで軍事目的を主眼に、国家が莫大な予算をかけて行なってきた宇宙計画は、民間企業にその舞台を変えつつあります。
あらたなベンチャー企業が次々と起こされ、ロケット開発の懸賞金が出され、民間宇宙旅行計画から、宇宙ホテル、月面開発、軌道エレベーターまで次々と計画や実験が行われています。
そんな宇宙開発は、実は最初期の段階も、民間によって推進されていました。国家がまだロケットや宇宙というものに価値を見出しておらず、いわばマニアの分野だったからです。宇宙開発史では、そういった民間研究者の存在無くしては語れないと言えます。
そんな宇宙開発の初期に関わった人々の動きを、時代順に追ってみてみます。

1857年9月17日、帝政ロシアに、コンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキーが誕生。のちに帝政ロシアおよびソビエト連邦の科学者、ロケット研究者となった人物で、数学教師でもあり、現代ロケット工学の草分け的存在でした。
1865年、ジュール・ヴェルヌのSF小説の古典『月世界旅行』が発刊されます。アメリカ南北戦争直後を舞台に、元砲術士官らが集まり、地面に埋めた超巨大な大砲で砲弾型宇宙船を打ち上げ、月へ人を送ろうとする話です。必ずしも科学技術小説ではなく、風刺小説という側面もあると言われていますが、後に書かれたウェルズの『宇宙戦争』とともに、様々な小説や映画に影響を与え、のちのロケット研究者になった若者らにも影響を与えた作品でした。
1882年10月5日、アメリカでロバート・ゴダード生誕。ツィオルコフスキーと並ぶ、ロケット研究者の草分けです。
1894年6月25日、ヘルマン・オーベルト生誕。ドイツで宇宙旅行協会を立ち上げたロケット愛好家。後述するように、この協会がロケットの発展に大きく関わることになります。
1898年、H・G・ウェルズのSF小説の古典『宇宙戦争』が発刊されます。イギリスを舞台に、突如空から落ちてきた火星人が、侵略攻撃を始める物語。単なる荒唐無稽な空想小説ではなく、人間同士の醜い欲望や争いなども描き、風刺的な要素も強い作品。タコのような火星人のイメージや、ロボット兵器の元祖とも言えるトライポッド、思わぬ理由で火星人が滅びてしまうオチまで、後の様々な小説や映画に影響を与えました。またロバート・ゴダードはこの時16歳で本作を読み影響を大きく受けたといわれています。
1907年1月12日、セルゲイ・パーヴロヴィチ・コロリョフ生誕。ソ連の航空技術者、ロケット技術者として知られるようになる人物です。
1912年3月23日、ヴェルンヘア・マグヌス・マクシミリアン・フォン・ブラウン生誕。一般にはヴェルナー・フォン・ブラウンで有名なロケット研究者。ドイツの貴族で、アポロ計画に深く関わった人物。
1914年6月30日、ウラジーミル・チェロメイ生誕。ソ連のロケット研究者で、弾道ミサイルの研究を進めた人物。現代のロシアの宇宙船に大きな影響を残しました。
1917年1月18日、ヴァシーリー・ミシン生誕。この人物もソ連のロケット開発に貢献した人物。
1920年、ロバート・ゴダードは論文で『高々度に達する方法』を発表します。しかし、ニューヨーク・タイムズは社説で、「何もない」真空中をロケットが飛行するのは不可能だと誰でも知っている、と痛烈に批判しました。同紙は49年後のアポロ月着陸の直前に、この社説の「過ちを後悔する」と表明しています。
1923年6月、ヘルマン・オーベルトの論文を元に『惑星空間へのロケット』が出版されドイツで評判となります。ロケット愛好家が生まれ、やがてこれが本格的な研究へとつながっていきます。
1926年3月16日、ロバート・ゴダードが、マサチューセッツ州オーバーンの農場で初めての液体燃料ロケット「ネル」の発射実験を行い成功しました。しかし、危険な実験だと騒ぎになり、新聞記者らの間違った記事や、「専門家」らによる「科学的」批判、国家や軍が彼の考えを理解できなかったことなどから、一部に彼を支援する動きがあったのみで、その功績は彼の死まで評価されませんでした。当時はアメリカよりも、ドイツや、新興勢力のソビエトのほうがロケット研究に注目していたのです。
1927年6月5日、ドイツのヨハネス・ヴィンクラーらロケット愛好者、研究者らが「宇宙旅行協会(VfR)」を設立。彼らの目的は月などへ行くことのできる宇宙飛行可能なロケットの研究。ヴァイマール共和国軍にも接近し、ベルリンに実験場を借りることが出来ました。
1928年、フリッツ・ラングによる映画『月世界の女』が公開。この作品ではロケット研究者らが関わっています。またこういう映画が人気を博したところに、当時のドイツにはロケット開発の社会的土壌があったことが伺わせます。直後に政権をとるナチスの政策だけではなかったわけです。
1931年1月21日には、宇宙旅行協会が液体ロケットの打ち上げに成功。高度は約90m。3月14日には、ヨハネス・ヴィンクラーらがデッサウでロケットHW−Iの打ち上げ実験を行い、1932年10月6日にもHW−IIの公開打ち上げを行っていますが、どちらも失敗に終わっています。しかし政府関係者や軍部の注目を得るようになりました。彼らは多くの実験を行っています。その若手メンバーだったフォン・ブラウンは、同年からドイツ陸軍と協力するようになります。ロケットは第二次大戦終結ころまでは、大砲の延長線上のイメージであったため、基本的には陸軍砲兵隊の担当でした。
1933年9月30日、宇宙旅行協会のロケット発射場「ベルリンロケット発射場」が閉鎖。水道料金の未払いが大きな理由です。また軍の協力を拒絶したことなども影響し、翌年には、協会も解散しています。しかし、メンバーの多くはその後、軍部のロケット開発に参加することになりました。
1934年12月、宇宙旅行協会のメンバーだったフォン・ブラウンらはA2ロケットの発射実験に成功します。このA2の大型化した後継ロケットが、有名なV2です。
1935年9月19日、ソ連のロケット研究者ツィオルコフスキーが78歳で死去。国葬が行われました。彼は運搬装置のロケットだけでなく、人工衛星や軌道エレベーターの構想もしていたとされ先進的な人物でした。そのため「ロケット工学の父」と呼ばれています。またロケットや宇宙開発への啓蒙のためSF作家としても活動した人物でした。ロケット開発には好意的だったソビエトですが、やがてスターリン政権下での大粛清が始まると、ロケット研究者も巻き込まれていきます。これはロケットがどうというわけではなく、あらゆる職場で政治的・思想的な弾圧が吹き荒れたためでした。
1938年7月22日、ソビエトのジェット推力研究所の所長だったコロリョフが冤罪により逮捕されます。彼は拷問の末に「自白」。シベリアへ流刑となり、過酷な環境で身体を壊すなど悲惨な境遇に遭います。関係者の尽力で刑期は緩和され、1944年には釈放されて、まもなく名誉回復されていますが、彼の逮捕は、友人だったロケット研究者ヴァレンティン・グルシュコが逮捕され尋問を受けた際にコロリョフの名を出したことが原因だとされています。両者とも戦後のミサイル開発で重要な地位にいましたが、このことと技術方針でも対立して死ぬまで不和が続き、フルシチョフらの仲介でも改善せず、ソ連の大型ミサイル・ロケット研究に影響したといわれています。
1942年10月3日、ナチスドイツはA4ロケットの発射実験に成功しました。これが史上最初の宇宙に出た飛行物体であり、成功した初の弾道ミサイルでもありました。
1944年3月、ドイツでもフォン・ブラウンが、ゲシュタポに拘留され連行されました。彼はもともと、ミサイル兵器より宇宙旅行が可能なロケット開発の夢を抱いていました。ミサイル兵器V2およびその後継ミサイル兵器の開発担当だったにもかかわらず、その夢を捨てずこだわり続けていたことが親衛隊などの反感を買い、国家反逆罪に問われたと言われています。関係者がV2開発の功績を持ち出し、ヒトラーまでが仲裁したため釈放されますが、他国を大きく引き離すほどのロケット・ミサイル開発に成功したナチスでさえ、ロケット開発の意義をなかなか認めない時代だったことを象徴しています。
1944年9月2日以降、V2による、フランス、イギリス、ベルギーへの攻撃が盛んに行われました。
この頃、ロケットは、まだ宇宙へ行くという目的よりも、ミサイル兵器、あるいは軍用機のロケット推進装置として研究されていました。日本でも小規模ながらロケット攻撃機の研究が行われています。特攻兵器となった桜花や十九試局地戦闘機秋水(陸軍ではキ−200)などはロケット推進でした。
1945年5月、ナチスドイツ崩壊。その直前から、フォン・ブラウンらは、亡命先を検討するようになります。先進的な技術を持つ彼らの価値にようやく気づき始めた連合各国は、ひそかに技術者を確保し連れ去る計画を立て始めます。ソ連のロケット研究者らはかなり早い段階でナチスのロケット基地を視察していました。
1945年6月20日、アメリカのハル国務長官が、フォン・ブラウンらドイツのロケット技術者のアメリカ移送を認めます。ペーパークリップ作戦と呼ばれたこの移送でアメリカはロケットと弾道ミサイルの開発を進めることになります。しかし、自国の先進的研究者だったゴダードの評価は遅れ、彼は同年8月10日に死去。死後に認められた膨大な特許は、のちに価値を理解した政府によって買い取られました。
1957年10月4日、ツィオルコフスキー生誕100年を記念して、ソビエトは人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功します。これはアメリカにとって、共産主義に対抗する自由勢力の威信を傷つけるだけにとどまらず、宇宙からの監視に加え、大陸間弾道ミサイル技術にもつながる大きな脅威でした。
ドイツやソ連に比べてロケット技術に対する評価が遅れたアメリカは、研究組織もバラバラで、大陸間弾道ミサイルでも、宇宙ロケットの開発でも、ソ連に遅れを取り、1957年12月6日に大々的に宣伝した初の衛星搭載ロケット「ヴァンガード」も発射に失敗して大恥をかく、という体たらくを経て、ようやく統一された本格的な開発に乗り出すことになります。
1958年7月29日、アメリカの国家航空宇宙諮問委員会(NACA)を解消して、アメリカ航空宇宙局(NASA)が設立されます。
1959年5月1日、メリーランド州グリーンベルトにNASAの衛星の管制を担当するゴダード宇宙飛行センターが設立されます。地球軌道上の観測衛星などを対象とした施設。先駆者だったロバート・ゴダードの評価が高まり、その名から命名されました。
1966年1月14日、セルゲイ・パーヴロヴィチ・コロリョフ死去。彼はアメリカで活躍したフォン・ブラウンと並ぶ、ソ連を代表するロケット研究者でしたが、ソ連の大陸間弾道ミサイルの開発を行ったため、その存在が明らかになったのは死後になってからでした。開発に携わった大陸間弾道ミサイルR−7(セミョールカ)は、発射に時間がかかる欠点から兵器としては短命に終わりましたが、宇宙ロケットに転用され、その派生形が次々と開発され、現在も使用される最も普及したロケットの一つです。
1977年6月16日、フォン・ブラウンが病気で死去。宇宙旅行協会を離れてナチスに協力し、戦後は一転してアメリカに鞍替えし、その態度が今日まで様々な批判にさらされてきましたが、彼自身は月を目指すロケット開発に情熱を燃やし続けた人物でした。そのためにナチスも、アメリカも利用したところがあるでしょう。結果的に「晩年」となってしまったアポロ以降は、独自の宇宙開発プランのため、NASAから離れ、民間企業で活動し米国宇宙協会(NSS)の設立に奔走していました。
1984年12月8日、ウラジーミル・チェロメイ死去。ソ連の大陸間弾道ミサイルや有人月飛行計画を推奨し、後に、宇宙ステーション建設や補給に使われているプロトンロケットの技術開発にあたった人物です。
1989年10月10日、ヴァレンティン・グルシュコ死去。死ぬまで対立したコロリョフの第1設計局(エネルギア。現S.P.コロリョフ ロケット&スペース コーポレーション エネルギア)を受け継ぎ、宇宙ステーションやソ連版スペースシャトル輸送ロケットエネルギア開発にあたった人物でした。
1989年12月28日、ドイツの初期のロケット工学研究者ヘルマン・オーベルト死去。世界のロケット開発に貢献したという意味では、そのきっかけを作ったような人物で、非常に長生きだった人物です。大きく進んだロケット技術をどう見ていたでしょうか。
2001年10月10日、ヴァシーリー・ミシン死去。ソ連のロケット研究者、教育者。コロリョフの右腕で後継者となった人物。超大型ロケットN−1による月有人飛行を計画するも失敗に終わりました。

ロケット技術は、民間の物好きな人たちから始まり、彼らを国家が雇い、兵器開発に当たらせたわけですが、ナチスや米ソのミサイル開発にあたった彼らは、一方で有人宇宙飛行のためのロケット開発の夢も捨てていませんでした。セミョールカやプロトン、サターン、スペースシャトルなどのロケットは、いずれも軍事と切り離せない一方で、科学や探査、宇宙ステーションといった方面でも大いに利用され、今の民間宇宙開発の基礎を築いたわけです。そこには政治家の思惑だけでなく、技術者の主張も多分にあったことでしょう。

☆この内容は総合年表HP(http://www.sogonenpyo.jpn.org/)に追加されます。
タグ:世界史 宇宙
posted by あお at 16:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 宇宙への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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